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下鴨神社⑤ 楼門~舞殿 境内東側

楼門~舞殿~橋殿 境内東側

重要文化財 楼門 剣の間

重要文化財 楼門 剣の間
高さ20メートル。東西の廻廊とも、古代様式を伝えている。21年ごとの式年遷宮ごとに造替されてきたが寛永度以降は解体修理をして保存されている。西廻廊の床張の一間は賀茂祭(葵祭)のとき勅使がここで剱を解かれる間(剣の間)である。楼門、東西廻廊とも、式年遷宮寛永5年度(1628)造替になった。

舞殿(まいどの)

重要文化財 舞殿まいどの
賀茂祭(葵祭)のとき勅使ちょくし御祭文ごさいもん奏上そうじょうされ東游あずまあそびが奉納される。御所が災害にあわれたとき、臨時の内侍所ないしどころと定められている。式年遷宮寛永5年度(1628)造替後は、21年目ごとに解体修理が行われる。入母屋造、檜皮葺、桁行四間、梁間三間。殿上は、宣命座の設置など柱間ごとに、細かく規定されている。*内侍所:三種の神器の一つである神鏡(八咫鏡(やたのかがみ))を安置した所のこと。
*東遊:雅楽の国風歌舞に類される長大な組曲である。

橋殿(はしどの)

重要文化財 橋殿はしどの
御蔭祭みかげまつりのとき、御神宝を奉安する御殿。古くは御戸代会(みとしろえ)神事、奏楽、里神楽、倭舞(やまとまい)が行われていた。また行幸、御幸のさい、公卿、殿上人の控え所と定められていた。現在は名月管絃祭、正月神事等年中祭事のときに神事芸能が奉納される社殿。式年遷宮寛永5年度(1628)造替後は、二十一年ごとに解体修理が行われる。桁行四間、梁間三間、入母屋造、妻入、桧皮葺

細殿御所

細殿御所ほそどのごしょ
平安時代の当神社の社殿の記録『神殿記』に細殿とある御所です。よって、今日でも細殿と呼んでいますが、歴代天皇の行幸、法皇、上皇、院の御幸の安在所です。*天皇が外出したときの仮の御所
また関白賀茂詣のせつには、拝所とされたほか、文学史上にみる有名な『鴨社歌会』などが度々行われた御所です。
近世の記録では、天明8年(1788)、洛中の大火があり皇居が回禄(類焼)したときは、内侍所(賢所)の奉安所となり、文久年度の回禄には、祐宮(のちの明治天皇)の安在所となりました。さらに文久3年(1863)3月11日、孝明天皇鴨社攘夷御祈願行幸のときには、第14代徳川家茂将軍の侍所となるなど、歴史的な御所です。
内部の構造は、折上げ二重の天井、外部は、向拝のついた流れ造りとなっており、建築学的にも貴重な御所です。向拝橋掛(階段のこと)への導入は、御手洗川に屋形橋と言う屋根のついた儲橋がかけられ、橋のたもとに水琴窟すいきんくつの手水が設けられています。御所の東側は『桔梗の庭』と呼ばれています。桔梗は、古名をおかときき、とか、きちこう、とも呼ばれ自然を畏敬し神仏に身をおく、と言う帰敬の意味をもって、花が愛でられていました。
現在の御所は、江戸時代、寛永5年(1628)遷宮に造替されて以降は、御遷宮ごとに解体修理がおこなわれてきました。

御手洗川 輪橋そりはしと光琳こうりんの梅

井上社(御手洗社) 御手洗川 

御手洗みたらし
君がため御手洗川を若水にむすぶや千代の初めなるらむ (後撰和歌集)
土用の丑の日にこの御手洗川に足を浸し疫病や病いを封じを祈願して賑わう「足つけ神事」や立秋の前夜の「矢取の神事」葵祭の「斎王さいおう代のみそぎの義」をはじめ、祓の神事が執り行われるところである。また常は水が流ていないが、土用が近づくとこんこんと湧き出るところから、京の七不思議の一つとされ、その様をかたちどったと云われるみたらし団子の発祥のところでもある。

輪橋そりはし光琳こうりんの梅
尾形光琳(1658−1716)が、このあたりを描いたのが「紅白梅図屏風(国宝)」である。以来、この梅を「光琳の梅」と呼ばれるようになった。

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