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南禅寺 ① 山門 法堂 水路閣

山門 法堂 水路閣

南禅寺全景

南禅寺
 臨済宗南禅寺派の大本山での正応4年(1291)亀山法皇の離宮の地を賜り、無関普門むかんふもん(大明国師)規庵祖円きあんそえん(南院国師)によって創建された。以来歴朝の勅願所として、また、中世五山制度が行われると「五山之上」という最高位に列せられ天下の尊崇そんすうを得て今日に及んでいる。
 勅使門、三門は重要文化財に大方丈(清涼殿)小方丈は国宝に指定され、内部の襖絵の多くは重要文化財に指定されている。方丈前庭は小堀遠州作「虎の子渡し」といい代表的な枯山水庭園として有名である。
  京都市

山門

三門とは、仏道修行で悟りに至る為に透過しなければならない三つの関門を表す、空、無相、無作むさの三解脱門を略した呼称です。
無相:姿・形のないこと。一切の執着を離れた境地。 無作:人為的な働きのないこと。自然のまま。
山門とも書き表され、寺院を代表する正門であり、禅宗七堂伽藍しちどうがらん(山門、仏殿、法堂はっとう僧堂そうどう庫裏くり東司とうす、浴室)の中の一つです。
法堂:僧侶が仏教を講義する建物。主に禅宗寺院、そのほかの宗派では講堂(こうどう)。
僧堂:修行者(僧侶)が集団生活を行いながら仏道修行に励む場。禅宗寺院で、坐禅や起居する建物
庫裏:食事を調える建物。住職やその家族の住む場所。*東司:寺院における便所

南禅寺の三門は別名「天下竜門」とも呼ばれ、上層の楼を五鳳楼ごほうろうと呼び、日本三大門の一つに数えられます。 開創当時のものは永仁3年(1295)西園寺実兼の寄進によって創立され、ついで応安年間に新三門へと改築されましたが文安四年の火災で焼失しました。
現在の三門は寛永5年(1628)藤堂高虎大阪夏の陣に倒れた家来の菩提を弔うために再建したものであり、禅宗様式独特の圧倒的な量感と列柱群が力強さを示しています。また、歌舞伎「楼門五三桐さんもん ごさんの きり」の石川五右衛門の伝説で有名です
山門楼上内陣の正面には仏師左京等の手になる宝冠釈迦座像を本尊とし、その脇士に月蓋長者、善財童士、左右に十六羅漢を配置し、本光国師、徳川家康、藤堂高虎の像と一門の重臣の位牌が安置されています。また天井の鳳凰、天人の極彩色の図は狩野探幽、土佐徳悦の筆とされています。三門の構造は五間三戸二階二重門、入母屋造、本瓦葺、高さは約22メートルです。両側に山廊があり、この山廊はそれぞれ桁行三間、梁間二間、一重、切妻造、本瓦葺となっています。明治32年(1899)国指定重要文化財となりました。
門前右方の巨大な石灯籠は寛永5年の三門落慶の際に佐久間勝之が供養の為に奉献したもので、高さ6メートル余りあり、大きさでは東洋一といわれています。俗に佐久間玄藩の片灯寵と呼ばれています。 またその銘文は崇伝によるものとされています。

http://www.nanzen.net/keidai_sanmon.html
2017年3月初旬

法堂

法堂は、法式行事や公式の法要が行われる場所であり、南禅寺の中心となる建物です。創建当時のものは、応仁、文明の乱で焼失しましたが、文明11年(1479)頃に復興されました。その後、慶長11年(1606)豊臣秀頼の寄進により大改築されましたが、明治26年(1893)の火災によって焼失しました。
現在の法堂は明治42年(1909)に再建されたもので、内部の須弥壇上中央に本尊釈迦如来、右側に獅子に騎る文殊菩薩、左側に象に騎る普賢菩薩の三尊像を安置し、床は一面の敷瓦となっております。屋根は林立する巨大な欅の円柱に支えられ、天井には今尾景年いまおけいねん画伯畢生の大作と云われる幡龍が描かれています。明治42年の創建以来80余年を経て、雨もりがするようになり、平成2年、開山大明国師700年大遠忌記念行事として、屋根茸替え工事及び敷瓦取り替え工事を行い、平成2年落慶法要が営まれました。

http://www.nanzen.net/keidai_hatto.html

史跡琵琶湖疏水のうち「水路閣」

史跡琵琶湖疏水のうち「水路閣
 疏水事業は,京都府知事北垣国道の発意により.田辺朔郎工学博士を工事担当者として.明治18年に起工され,同23年に竣工した。
 水路閣は,この疏水事業の一環として施工された水路橋で,延長93.17メートル,幅4.06メートル,水路幅2.42メートル,煉瓦造,アーチ構造の優れたデザインを持ち,京都を代表する景観の一つとなっている。
 また,ここから西500メートルにあるインクラインは,高低差のある蹴上の舟だまりと南禅寺の舟だまりを結ぶ傾斜地に上下2本のレールを敷き.艇架台により舟を運ぶ施設で,当時の舟運による交通事情がよくうかがえる。
 いずれも,西欧技術が導入されて間もない当時,日本人のみの手で設計,施工されたもので,土木技術史上.極めて貴重なものであり,昭和58年7月1日に「疏水運河のうち水路閣及びインクライン」として京都市指定史跡に指定された。
 また,平成8年6月には,この水路閣,インクラインに加え,第1疏水の第1・第2・第3隧道の各出入口,第1竪坑,第2竪坑,明治36年に架設された日本初の鉄筋コンクリート橋(日ノ岡第11号橋),同37年架設の山ノ谷橋などが日本を代表する近代化遺産として国の史跡に指定された。
 京都市

駒ヶ瀧本堂最勝院

【當寺の由来】
此処より奥駒ヶ滝最勝院こまがたきさいしょういん一帯の山峡は古く鎌倉時代より「神仙佳境」と呼ばれ、最勝院駒道智大僧正の霊地として広く世間に知られています。駒道智大僧正は、今を距る七百数十年前摂政関白九条道家の子に生れ、幼なくして比叡山に登り仏道修行の道に入られ、天台密教の深奥を極めた人であります。後三井寺の長更(管長)となり、更に当時天台密教の寺であった禅林寺の住持に移られました。晩年世をいといこの駒ヶ滝最勝院の地に穏棲されましたが、文永三年三月三日ついに秘密の法力により白馬にまたがり生身を天空にかくされたと伝えられています。それ以来滝を駒ヶ滝(これより奥約二〇〇米)僧正を駒大僧正といい、又院号をとって僧正をまつる寺を最勝院と呼ぶことになりました。鎌倉時代末文永年間亀山天皇が此の下に離宮を建てられると僧正を土地の鎮守として篤くまつられ、更に離宮を革めて禅寺を創建して南禅寺の基を開かれると、僧正は護法神としてまつられました。爾来七百年南禅寺一山の崇敬はもとより、広く京都の人々の信仰の一中心となり、古来勝運の神として参詣者が跡を絶ちません。
当寺は即ち駒大僧正をまつった本堂であり、駒ヶ滝はその奥の院であります。明治の末年迄はこの下の南禅寺寺務所の地にあり最勝院般若殿と呼ばれていましたが、大正六年夢想国師の塔所上生院の故地である現在の地に移転したのであります。

駒ヶ瀧本堂最勝院 

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