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東大寺

世界遺産
通称:東大寺(とうだいじ)
公式名称:金光明四天王護国之寺
     (きんこうみょうしてんのうごこくのてら)
宗派: 華厳宗けごんしゅう 大本山

公式サイト:http://www.todaiji.or.jp

東大寺|由縁 歴史
世界遺産せかいいさん通称つうしょう: 東大寺とうだいじ公式名称こうしきめいしょう: 金光明きんこうみょう-四天王してんのう-護国之寺ごこくのてら宗派しゅうは: 華厳宗けごんしゅう 大本山本尊ほんぞん: 盧舎那仏るしゃなぶつ開山かいざん: 良弁ろうべん 公式サイト:http://www.todaiji.or.jp/index.html 東大寺が建立されたのは奈良時代、752年。 もともと早く亡くなった聖武天皇の息子、基(もとい)皇子(みこ)の冥福(めいふく)を祈って建てられた金(きん)鐘寺(しょうじ)というお寺が東大寺の前身(ぜんしん)といわれています。 聖武天皇は、基皇子の急死や政変、飢饉(ききん)や疫病(えきびょう)など困難(こんなん)が相次(あいつ)いだことを悩み、仏教によって国を統治し安泰(あんたい)に導こうとしました。 天平13年(741)に全国各地の僧(そう)尼(に)を管理する官寺(かんじ)の「国分寺(こくぶんじ)・国分尼寺(にじ)」建立の詔(みことのり)を発せられると、金鍾寺(きんしょうじ)は大和国の国分寺(金(きん)光明(こうみょう)四天王(してんのう)護国之寺(ごこくのてら))にあてられ、国家(こっか)鎮護(ちんご)の官寺(かんじ)となり金(きん)光明寺(こうみょうじ)と呼ばれた。 東大寺はそのため正式名称は金光明四天王護国之寺という。 天平15年(743)盧舎那仏(るしゃなぶつ)造(ぞう)顕(けん)の詔を発し、大仏造像に着手し、約10年を経て、天平勝(しょう)宝(ほう)4年(752)、大仏の開眼(かいがん)供養(くよう)が、インド僧、菩提(ぼだい)僊那(せんな)らを招いて盛大に行なわれます。 大仏鋳造(ちゅうぞう)と伽藍(がらん)造営は国家組織の造(ぞう)東大寺司(し)が推し進め、負担したが、行基(ぎょうき)のまとめる大衆の勧進(かんじん)によるところも大きかった。また、寺務は良弁(ろうべん)が担う。 天平勝宝6年(754)には鑑真和上(がんじんおしょう)か大仏殿の前に設けられた戒壇(かいだん)で聖武上皇はじめ四百四十人余りに授戒(じゅかい)して東大寺は名実ともに国家鎮護の官寺、全国の国分寺総本山として整います。 その後、平安末期と戦国時代の2度にわたって兵火にあい大仏殿とともに被害を受けましたが、そのつど再興(さいこう)されました。 鎌倉期(かまくらき)の再興では、大勧進(おおかんじん)となった重源(ちょうげん)が尽力(じんりょく)し、慶派(けいは)の仏師も参画(さんかく)しています。 現在の大仏像は、右(みぎ)腋(わき)から腹前(はらまえ)にかけてと脚部、台座の一部が当初の奈良時代の作で、体部は鎌倉時代、頭部は江戸中期の再(さい)鋳(ちゅう)したもの。 幾度の焼損(しょうそん)を乗り越えて復活してきた大仏は、奈良時代の仏教的な世界観の壮大さを、1300年の時を超えて、現代に伝えています。
東大寺 歴史資料
大仏殿 東大寺歴史資料 創建当初の伽藍模型
平城時代「奈良時代」とは
710年(和銅3年)に元明天皇によって平城京「奈良の都」に都が移ってから、794年(延暦13年)に桓武天皇によって平安京に都が移るまでの84年間の時代を平城時代または奈良時代という。
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平城時代 聖武天皇
平城時代「奈良時代」とは
710年(和銅3年)に元明天皇(げんめいてんのう)によって平城京へいじょうきょう「奈良の都」に都が移ってから、794年(延暦13年)に桓武かんむ天皇によって平安京へいあんきょうに都が移るまでの84年間の時代を平城時代または奈良時代という。 大宝律令の制定、平城京遷都せんとには藤原不比等ふひとが重要な役割を果たし、中国(唐とう)の都、長安ちょうあんを参考にした都を造営し、貴族、皇族が住民の大半を占める政治都市が造られる。そしてこの奈良の都、平城京を中心にして、天平文化てんぴょうぶんか、華開いた貴族・仏教文化が栄える。 平城時代、東大寺を建てた聖武天皇の時代。 701年 文武もんむ天皇の息子、首皇子おびとのみこ、後の聖武天皇が生まれる。 701年に大宝律令たいほうりつりょう という法典ほうてんが完成する。 大宝律令は、唐の律令という法律を参考にしています。 「律りつ」は罪人ざいにんをさばくための刑法けいほうで、「令りょう」は役所や役人などに対する法律です。* 律令にもとづいて政治を行う国家のことを、律令国家りつりょう こっか と言います。 707年 文武天皇が病気で若くして亡くなる。まだ首皇子おびとのみこが子供のため、母の元明天皇が即位。        708年 和同開珎の鋳造        710年 藤原京から平城京へと遷都しました。        遷都の明確な理由は不明であるが、唐を参考にした新しい律令国家となることを目指したと思われる。 724年 成人した聖武天皇が即位する。 ★皇族の権力争い: 左大臣さだいじん 長屋王ながやおう VS 藤原ふじわら氏(藤原四兄弟) * 左大臣:天皇に次ぐ最高権力者* 聖武天皇はその母と妻に藤原不比等ふひとの娘をもつ。728年 聖武天皇が溺愛していた皇太子の基(もとい)皇子(みこ)が1歳で亡くなる。藤原氏は長屋王を謀反の疑いで攻撃し自害させます。* 長屋王は藤原氏を母に持つ基皇子を即位させることを良く思っていなかった。 ★天然痘てんねんとう、疫病えきびょうが大流行: 藤原四兄弟、多くの官僚かんりょうも亡くなる。民衆は苦しみ、冤罪えんざいで長屋王を葬ほうむった祟たたりだと噂うわさになり、民衆が恐れることとなる。 右大臣うだいじん 橘諸兄たちばなのもろえの政権―元遣唐使の吉備真備きびのまきびと玄昉げんぼうの採用疫病のため、多くの官僚も亡くなり、藤原四兄弟をなくした藤原氏の勢力も衰退する中、橘諸兄が右大臣になり、新しい人事を行う。唐の制度を参考に国造りをしていたので、身分にかかわらず、唐について理解している人が採用され、元遣唐使であった吉備真備(きびのまきび)と玄昉(げんぼう)が特に重用されていた。  ★藤原広嗣ひろつぐの乱: 739年に素行(そこう)の悪さから大宰府だざいふに左遷させんされていた藤原四兄弟の子孫、藤原広嗣が九州にて反乱をおこす。新しい人事に対しての不満。聖武天皇が即対応して反乱を制圧する。 聖武天皇が即位してから、疫病、大地震、権力争い、反乱などいろいろな困難があり、聖武天皇も迷い、恭(く)仁(に)京(きょう)(京都府木津川市)、紫香楽宮(滋賀県甲賀市)、難波宮(大阪市中央区法円坂)に都を移そうとしますがどこもうまくいかず、平城京に戻ります。こういった時代の流れの中で、聖武天皇は仏経の力で国を守る鎮護国家の政策をとり平穏を取り戻そうとします。
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南大門 由縁 歴史
南大門の歴史 金剛力士像 東大寺 南大門なんだいもん 鎌倉時代(1185–1333)に東大寺を 復興した重源上人ちょうげんしょうにんが再建(1199)。入宋経験のある重源によってもたらされたこの建築様式は大仏(だいぶつ)様(よう)(天竺(てんじく)様(よう))と呼ばれました。 重層門(二重門)最近では重層門のうち,下層に屋根をもたないものを〈楼門〉と呼び,上下層に屋根のある門を〈二重門〉と呼び分ける。で高さ25m、入母屋いりもや造り、五間三戸ごけんさんこ正面の柱間(はしらま)の数と,そこに開かれる戸口の数の大仏殿にふさわしいわが国最大の山門である。 平重衡による南都(奈良)焼討ち 鎌倉時代の再興: 奈良時代に創建された東大寺は、1180年に平重衡しげひらによる南都(奈良)焼討ちで大仏殿をはじめ多くの堂宇どううが焼失し、南大門も失われますが、鎌倉時代初期に活躍した重源(1121-1206)が東大寺復興の大勧進に任命され、南大門も再建される。 重源上人(ちょうげんしょうにん):  京都・醍醐寺で真言密教を学んだ僧で、40代から中国に3度渡って南宋の知識や技術を吸収、帰国後は各地の社寺の建立・修復の資金を集める勧進僧として活動しました。その経験を買われて、東大寺復興の大勧進識(しき)に任命されます。大仏の再鋳、大仏殿や南大門の再建など、86歳で没するまで精力的に活動しました。 また鎌倉期の再興では、慶派の仏師も再興に加わり尽力する。南大門の両脇に立つ二体の8mの高さを超す巨像、金剛力士像は仏師、運慶率いる慶派の仏師集団によって大仏(盧舎那仏)の守護神として作られる。建仁3年(1203)運慶と快慶が弟子を引き連れてわすか日69日で完成させたという。 門の北側左右には宋の石工、伊行末(いのゆきすえ)が刻んだ石獅子像を安置。獅子には悪魔を圧する霊力があると信じられたために、門や扉の守護物とする。
東大寺 参道 南大門
交差点から南大門へ 大仏殿交差点 現在地境内マップ 世界遺産 石碑 南大門 金剛力士像(仁王像) 吽形像 阿形像
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東大寺
東大寺 参道 南大門
交差点から南大門へ 大仏殿交差点 現在地境内マップ 世界遺産 石碑 南大門 金剛力士像(仁王像) 吽形像 阿形像
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東大寺ミュージアム
東大寺 南大門から大仏殿
参道 南大門から大仏殿 東大寺ミュージアム 東大寺ミュージアム 公式サイトhttp://culturecenter.todaiji.or.jp/museum/index.html 参道 東側 明治天皇奈良行在所・東大寺東南院 舊境内東大寺 本坊鏡池大仏殿参道 石碑「明治天皇奈良行在所・東大寺東南院 舊境内」昭和八年に明治天皇聖蹟として指定され、東南院旧境内は国の史跡となりました。 参道 西側 - 東大寺塔頭の真言院 勧学院 東大寺勧学院真言院 勧学院この先に一乗院宮墓地會津 八一の歌碑 参道の西側には東大寺ミュージアムのあと、東大寺塔頭の真言院 勧学院の土壁があり、東門の横には谷川喜六建立慰霊碑があります。その横には會津 八一の歌碑があります。 五百立神社(いおだてじんじゃ) 鐵道供養塔 鏡池 天然記念物 ワタカ ワタカ – Wikipedia 大仏殿 中門 中門大仏殿 入り口へ 大仏殿 中門 左に行くと大仏殿入り口になっています。左端が入り口でしたが、コロナ対策として途中に入り口があり、長く観光客が並べるようになっています。残念ながら観光客はほとんどいない状況ですが。
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大仏殿
東大寺 大仏殿
大仏殿 中門 拝観受付 中門受付入り口拝観受付入り口 入り口手前からの写真 大仏殿 正面から 八角燈籠 観相窓 手水舎
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大仏
東大寺 大仏
大仏 正面 西側 大仏 正面から 大仏蓮弁(れんべん) 銅鑼(どうら) 銅鑼(どうら):青銅などでできた金属製円盤を枠につるし、ばちで打ち鳴らす。仏教の法要、民俗芸能の囃子 (はやし) 、歌舞伎下座音楽、出帆の合図などに広く用いられる。ゴング。goo国語辞書 大仏 西側から 鴟尾(しび) *鴟尾(しび):屋根の大棟の両端を飾るもので,沓形 (くつがた) ともいう。 虚空蔵菩薩 広目天 増長天像頭部
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多聞天
東大寺 大仏殿東側 相輪
大仏 東側 多聞天 持国天像 頭部 柱の穴くぐり 如意輪観音 大仏 右から 施無畏印(せむいいん)与願印(よがんいん) 施無畏印(せむいいん) 右手の印相は”施無畏印(せむいいん)”で、畏れることは無いですよという意味を表わします。左手は与願印(よがんいん)で人々の色んな願いを叶えますよという意味を表します。 賓頭盧尊者像(びんずるそんじゃぞう)  相輪  花まつり千僧法要記念宝塔
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手向山八幡宮
手向山八幡宮
手向山八幡宮 一の鳥居 参道 一の鳥居 狛犬 参道 東塔院発掘調査 神門(楼門) 宝庫 宝庫 拝殿 主祭神: 応神天皇、姫大神、仲哀天皇、神功皇后、仁徳天皇 天平勝宝元年(749年)、東大寺及び大仏を建立するにあたって宇佐八幡宮より東大寺の守護神として勧請された。当初は平城宮南の梨原宮に鎮座し、後に東大寺大仏殿南方の鏡池付近に移座したが、治承4年(1180年)の平重衡による南都焼討で焼失する。建長2年(1250年)に北条時頼が現在地に再建した。当初の鎮座地とされる梨原宮の所在地は未詳だが、奈良市役所近くにある平城京左京三条二坊宮跡庭園がその跡ともいわれる。江戸時代の元禄4年(1691年)に本殿が再建された。創建以来、東大寺に属しその鎮守社とされてきたが、明治の神仏分離の際に東大寺から独立した。Wikipedia 御神紋 向かい鳩 御神紋の「向かい鳩」向かい合う鳩がハートマークを作っています 南門 鳥居 社標 若宮神社 菅原道真公腰掛石 若宮神社菅公腰掛石菅原道真がこの石に座ったとされる。若宮神社 拝殿神楽所 大黒殿 北門 鳥居 手水舎 手水舎北門北鳥居 北門から出ると目の前に法華堂(三月堂)があります。
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二月堂
二月堂
二月堂 手水舎 龍王の滝 興成神社(こうじょうじんじゃ) 二月堂良弁杉(ろうべんすぎ) 閼伽井屋(あかいや) 手水舎 龍美堂 飯道神社(いいみちじんじゃ) 二月堂からの景色 二月堂三月堂四月堂 生駒山 遠敷神社(おにゅうじんじゃ)観音堂 良弁杉母鹿 小鹿登廊
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東大寺 三月堂 四月堂
東大寺 三月堂 鐘楼
東大寺 三月堂~鐘楼 三月堂 四月堂 不動堂 鐘楼 梵鐘 鐘楼 梵鐘 念仏堂行基堂俊乗堂
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二月堂裏参道
二月堂裏参道
二月堂裏参道 大湯屋 鐘楼の場所から階段を下りて、二月堂裏参道を歩いてみる 大湯屋 大湯屋 大仏殿方面に戻る
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近鉄奈良駅 東側 行基噴水前
東向商店街 近鉄奈良駅
近鉄奈良駅 東側 近鉄奈良駅 東出口から 東向商店街 近鉄奈良駅 東出口から出ると行基の銅像が立っている噴水があり、東向商店街が南北に通っています。 奈良町、三条通へは右に進んでいきます。 奈良公園、東大寺はまっすぐ東に大通り沿いに歩いていけば20分ほどで着きます。 行基は聖武上皇の命により、東大寺大仏開眼供養の導師を勤めた。
東大寺|由縁 歴史
東大寺が建立されたのは奈良時代、752年。 もともと早く亡くなった聖武天皇の息子、基もとい皇子みこの冥福めいふくを祈って建てられた金きん鐘寺しょうじというお寺が東大寺の前身ぜんしんといわれています。
東 東大寺 奈良公園方面北 東向商店街南 東向商店街 西出口側 西出口 バス タクシー乗り場小西さくら通り 南へ 
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