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上京区

上七軒
上七軒  今出川通七本松西入から北野天満宮東門に至る両側で、真盛町・社家長屋町・鳥居前町の地域 「京都府下遊郭由緒」の伝えるところによると往古より七軒茶屋と相唄、足利氏武勝の頃、北野天満宮再建の残木を以て七軒の水茶屋を神社東門前に建てたことから上七軒の名称が起ったという。 其後、豊太閤秀吉、北野大茶会の折、上七軒から差し出された土地の名産 御手洗団子を賞誉有之、山城一円の茶屋株を与えられた。これにより上七軒の御茶屋では御手洗団子を「定紋」とし、毎年秀吉を祀る豊国神社に御手洗団子を奉納する慣しがあった。四月上旬「北野おどり」 十月には「寿会」が芸妓衆によって開催される。京都最古、第一の遊里である。駒札より
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北野天満宮④ 絵馬掛所~宝物殿
北野天満宮④ 絵馬掛所~宝物殿 絵馬掛所 末社群(十二社)  老松社  地主神社 末社群(十二社)老松社地主神社 老松社 (おいまつしゃ)祭神   島田忠臣翁 (しまだ ただおき)神徳   植林・林業の神祭神の島田忠臣は、菅公の家臣と伝えられ、また一説には公の岳父(夫人の父)ともいわれる。忠臣は菅公が配流先の大宰府で、自らの無実を天の神々に訴えるため天拝山に登られた時、 公の笏を預かってお供をした人物で、後に菅公は忠臣に松の種を持たせ当地に撒くように託された。 道真公のご神霊がこの地に降臨される時、多数の松が一夜にして生じたという伝説は、この事蹟にもとづくものといわれる。 地主神社 : 祭神   天神地祇(てんじん‐ちぎ) *天つ神と国つ神。 すべての神々。 一般に、天神は高天原 (たかまがはら) に生まれた神、あるいは葦原の中つ国に天降った神、地祇はこの国土の神とされる。相殿   敦実親王あつみしんのう 斎世ときよ親王 源英明朝臣みなもとひであきらあそん当宮は「続日本後紀」に「承和三年(836年、菅公ご誕生の9年前)2月1日、 遣唐使の為に天神地祇を祭る」と記録されているとおり、天満宮創建以前よりこの地に鎮座していた神社である。主祭神の天神地祇とは、日本国内六十余国に祭られたすべての神々のことであり、 ともに祭られる三人の皇子は、いずれも道真公のご血縁など、特に公と縁の深いかたがたである。 現社殿は豊臣秀頼公の造営になり、由緒・規模とも天満宮随一の摂社である。 文子天満宮(あやこてんまんぐう) 祭神 菅原道真公  神徳 入試・学徳成就 道真公が太宰府で生涯を閉じられて四十年を経た天慶五年(九四二)、右京七条二坊(現在の京都市下京区千本通り七条辺)に住む巫女多治比文子に菅公の神霊より、わが魂を右近馬場(現境内地)に祭れとのお告げがあり、文子はとりあえず自宅に菅公の御霊をお祭りした。これが北野天満宮の発祥である。その後、他の霊能者にも同じご神託が相つぎ、天暦元年(九四七)天満宮は現在地に移された。文子の住居跡は神殿につくり改め文子天満宮と称えられてきたが、やがて西の京に移され、さらに明治六年この場所に遷座された駒札より 北門 北門周辺 松永伍作氏顕彰碑 伊達彌助氏顕彰碑 松永伍作氏顕彰碑伊達彌助氏顕彰碑 東門 鳥居 東門 上七軒 西向き 東門 鳥居東向き 上七軒 茶室「明月舎」 明月舎 竈社(かまどしゃ) 手水舎 御祭神 庭津彦神にわつひこのかみ・庭津姫神にわつひめのかみ・火産霊神ほむすびのかみ  神徳 台所の守り神庭津彦・庭津姫神の「庭」は家庭の意味で、この二紳は家庭の守護神、また火産霊神は、火をつかさどる神である。古来この三柱の神は、かまど・台所の守り神として私たちの日常生活と密接に結びつき、各家庭で大切に守られて来た。この神々はもともと天満宮の御供所(神さまへのお供えを調理する台所)のかまどに祭られていたもので、昔から使われてきた大釜が社殿の床下に納められており、かいま見ることができる。なお、かまどの神については中国にも同様の信仰があり、この神を台所に祭ると福を招くとして守り継がれている。 宝物殿 宝物殿宝物殿
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北野天満宮③ 三光門 本殿
北野天満宮③ 三光門 本殿 三光門 夜空の北極星をいただく伝説の門楼門と拝殿の間に建つ中門は三光門と呼ばれ、ひと際壮麗な造りと上部に掲げられた後西天皇御宸筆の『天満宮』の勅額によって、当宮のシンボル的な建築として知られています。三光とは、日、月、星の意味で、梁の間に彫刻があることが名の由来ですが、星の彫刻だけが見られないともいわれています。その理由は、かつて朝廷があった大極殿から望むとちょうどこの門の上に北極星が輝くことから。天空と一つになって平安京を守っていた場所がこの北野の地なのです。この伝説は「星欠けの三光門」として今も当宮の七不思議に数えられています。 社殿と同じく、桃山時代の建築様式で重要文化財に指定されています。https://kitanotenmangu.or.jp/highlight.php#high_tp6 撫で牛 社殿: 拝殿 本殿 総面積約500坪の雄大な桧皮葺屋根を戴く社殿は、菅原道真公をおまつりする本殿と拝殿が石の間という石畳の廊下でつながり、本殿の西には脇殿を、拝殿の両脇には楽の間を備えた複雑な構造。八棟造、権現造りと称され、神社建築の歴史を伝える貴重な遺構として国宝に指定されています。千年余りの歴史のなかで何度も火災にあいましたが、そのたびに朝廷や将軍家によって造営修繕がなされ、現在の本殿は豊臣秀吉公の遺命により豊臣秀頼公が慶長12年(1607)に造営されたものです。唐破風や黄金色に輝く装飾、精緻な彫刻の数々は絢爛豪華な桃山文化の建築ならでは。毎月25日のライトアップでは吊燈籠に火がともされ、幻想的な眺めを見ることができます。https://kitanotenmangu.or.jp/highlight.php#high_tp5 飛梅(とびうめ) 松 梅松 幹周りや力強く根を張った形状、接ぎ木の形跡などから樹齢四〇〇年以上と見られる御祭神菅原道真公の御心に寄り添い飛翔した各地の「飛梅伝説」の原種であることが明らかになっている。 渡邊綱(わたなべのつな)の燈籠  渡邊綱は平安時代中期の武将源頼光(みなもとのよりみつ)の四天王の一人。大江山の酒吞童子しゅてんどうじ、一条戻り橋での鬼との戦いはつとに有名。 本燈籠の由来はこの一条戻り橋の鬼退治の話に遡る。「渡邊綱が所用で夜半一条戻り橋にさしかかると、若く美しい女性に深夜のこととて家までおくってほしいと頼まれる。しばらく行くとその女性は恐ろしい鬼の姿となり綱を捕らえて舞い上がり、愛宕山へ連れ去ろう北野天満宮上空にさしかかる。その時、綱は太刀を抜き放ち、綱を掴んでいた鬼の片腕を切り落とし難を逃れる。」 後日、綱はこれも北野天満宮の大神のおかげと神恩を感謝し、この石燈籠を寄進したという。」
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北野天満宮② 楼門 絵馬所 摂社末社
北野天満宮② 楼門 絵馬所 周辺 摂社末社 楼門 楼門の上部に掛けられた額には、文道大祖 風月本主(ぶんどうのたいそ ふうげつのほんしゅ)の文言が刻まれています。平安時代中期の学者・慶滋 保胤(よししげ の やすたね)、大江匡衡(おおえのまさひら)が菅原道真公を讃えた言葉です。年末に奉掲するジャンボ絵馬も、京の師走の風物詩として知られています。*文道大祖: 学問・文学の祖 風月本主: 漢詩・和歌に長じた人https://kitanotenmangu.or.jp/about_precincts.php 菅原道真公(菅公)を祀る全国約一万二千社に及ぶ天満宮・天神社の総本社。「和魂漢才」の精神を提唱された菅公は、後に「文道大根 風月本主」と称えられ、学業成就や厄除、技芸上達の神として信仰を集めている。*和魂漢才 日本固有の精神と中国伝来の学問。村上天皇天暦元年(九四七)、平安京の北西(天門)に創祀され、天徳三年(九五九)藤原師輔もろすけ卿が御社殿を造営、以来朝野ちょうのの崇敬篤く、殊に一條天皇には「北野天満大自在天神」の神号を賜り、格別の尊崇を受け、「天神さま」として全国に伝播した。*朝野:朝廷と民間また、天正年間には豊臣秀吉公が境内一帯の北野松原で北野大茶湯きたのおおちゃのゆを催し、慶長年間には出雲阿国が京において初めてややこ踊り(歌舞伎踊り)を演じるなど、日本文化発信の中心地として強く意識されてきた。現在の御本殿(国宝)は、豊臣秀頼公が、慶長十二年(一六〇七)に造営されたもので八棟造と称し、権現造の原型となった桃山建築の代表的遺構である。また、中門は三光門と呼ばれ、後西天皇御宸筆の勅額「天満宮」を掲げている。宝物としては、紙本著色北野天神縁起絵巻・承久本(国宝)をはじめ、貴重な文化財を多数蔵している。毎年二十五日の御縁日(天神さんの日)には多くの参拝者で賑う。京都市 北野の花手水 北野の花手水銅板葺・平入入母屋造 楼門をくぐって右側(東側)に手水舎があります。コロナウイルスの拡大により柄杓を用いての手水が撤廃。代わりに竹筒から水が注がれ、手水鉢には花やかぼちゃなどが並べられています。 絵馬所 「絵馬所」とは文字通り、大きな絵馬が奉納されている建物です。現在の絵馬所は元禄12年(1699)に建てられ、規模、歴史は現存する絵馬所のなかでも随一と言われています。
北野天満宮の絵馬所 - 絵馬ブログ
北野天満宮は言わずと知れた全国の天満宮や天神社の総本社で、太宰府天満宮と並び天神信仰の中心地だ。行った日はちょうど雨が降っていた。 実は北野天満宮は二度目の参拝で、数年前に私が絵馬堂に興味をもったきっかけがここの絵馬所でもある。なんだか少し感慨深い再訪だった。 雨に煙る風景もなかなか。社務所に並べてあった黄色い番傘には...
宗像社(むなかたしゃ) 御祭神 田心媛神たごうひめのかみ・湍津姫たぎつひめのかみ神・市杵島姫いちきしまひめの神ご祭神は福岡県の北西部、玄界灘げんかいなだに臨む陸地(現在の宗像むなかたぐん郡玄海町)と、 その沖合いにある二つの島にご鎮座になられた「宗像の三女神」とよばれる神々である。太古よりこの海域は、大陸との交流において重要な道筋にあたり、海上交通の要所に鎮まる宗像の三女神は、 道を掌る最高神として手篤く祭られてきた。当社は、昔この社殿の西に池があり、水底にご鎮座になっていたご神体をこの場所に遷したものと伝えられている。 大杉社 当宮随一の御神木である。室町時代に作成された『社頭古絵図』には、すでに樹齢数百年らしき二又の杉の巨木が描かれており、これより推定しても一千年以上の時を経たものとと思われる。神仏習合時代の室町期には、『聖歓喜天しょうかんぎてん』の宿る所願成就の神木として一層の信仰を集めた。のち落雷によって惜しくも二又はくじけ、根幹を残すのみとなったが、その威容は多くの崇敬者によって守り継がれ、いささかも衰えことはない。*聖天様(通称)のお姿は、頭がゾウで体は人間。 稲荷神社 御祭神 倉稲魂神うがのみたまのかみ・猿田彦命さるたひこのみこと・大宮女命おおみやめのみこと祭神は「稲生いねなりの神」と称えられる通り、五穀ごこく(米・麦・粟・豆・稗ひえ)豊穣ほうじょうをつかさどり、また商売繁盛の守護神として代表的な神である。当社はまた、昔この付近に火災があった際、この神社の手前で火の手がぴたりと止まったという伝えによって「火除け稲荷」とも呼ばれ、信仰を集めている。 猿田彦社(さるたひこしゃ) 御祭神 猿田彦神 神徳 交通安全(相殿) 大宮売神おおみやめのかみ 神徳 芸能・舞踏上達猿田彦神は、日本の国をよく治めるようにという天照大神あまてらすおおかみの命令を受けた瓊々杵尊ににぎのみことが、高天原たかあまはら(天上にある神々の世界)より地上に降り立たれる際、先頭に立って道案内をした神であり、この神話をもって交通安全の神として崇められてきた。身の丈二メートルをこえる巨体と長い鼻を持ったこの神は、昔から「天狗さま」として親しまれている。大宮売神は、天鈿女命あめのうずめのみことの別名。弟神 素戔嗚命すさのお‐の‐みことの乱暴な振る舞いを嘆き悲しまれ、天岩屋戸にお隠れになった天照大神を、軽妙な踊りで慰めた女神であり、芸能上達の守護神として崇敬される。愛嬌のある顔立ちをされた神で、我国に伝わる「おかめ」というユーモラスな女性の顔は、この女神をモデルにしたものである。 素戔嗚命:日本神話の神。伊奘諾尊(いざなぎのみこと)・伊奘冉尊(いざなみのみこと)の子。天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟。多くの乱暴を行ったため、天照大神が怒って天の岩屋にこもり、高天原から追放された。出雲に降り、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、奇稲田姫(くしなだひめ)を救い、大蛇の尾から得た天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を天照大神に献じた。 一ノ保神社(いちのほじんじゃ)奇御魂神社(くしみたま じんじゃ) 一ノ保神社(いちのほじんじゃ): 祭神 菅原道真公  神徳 学徳成就この神社は、道真公が太宰府に残された手作りの木像を持ち帰り、西の京(京都市中京区南西部 天満宮の氏子区域)北町に建てた小さな社に納め、これを『安楽寺天満宮』と称して祭られていたもので、明治になって当地へ遷された。『安楽寺』とは、菅公の墓所になった寺で、太宰府天満宮の起源とされるが、菅公のご遺徳を偲ぶ人々によって、この寺に因んだ神社名が付けられていたと思われる。 奇御魂神社(くしみたま じんじゃ):祭神 道真公の奇御魂  神徳 文芸・歌道上達の神『奇御魂』とは さまざまな不思議や奇跡をよびおこす特別な力を持った神霊のことで、鎌倉時代の中頃 菅公のご神霊が、東福寺の開祖圓爾国師(えんにこくし)の前に現れ『私はこのたび宋に飛び、一日にして禅の奥義(おうぎ)を修得した』と告げられた。その時 菅公は唐衣(からころも)をまとい手に一輪の梅の花を持たれていたため、以来このお姿を『渡唐(ととう)(宋)天神(てんじん)』と称え祭るようになった。また昔 天満宮の境内でさかんにあった法楽連歌(ほうらくれんが)(天神さまをなぐさめるため人々が集い和歌を詠(よ)みあう会)は、この『渡唐天神』の肖像(みすがた)の前で行われたことにより、菅公は歌道・文芸上達の守護神として崇敬されるようになる。 野見宿祢神社 豊国神社 一夜松神社 野見宿祢神社(のみのすくねじんじゃ):祭神:野見宿祢命(のみのすくねのみこと)神徳:スポーツ上達野見宿祢命は道真公の十九代前の先祖・文武両道に優れた勇士で、垂仁すいにん天皇の午前試合において、最強力士を豪語する当麻蹶早(たいまの けはや)を打ち破り相撲の祖と仰がれた。大相撲京都場所の際は、力士の参拝も多い。のち宿祢すくねは朝廷に仕え、古いしきたりを改めた功績により土師(はじ)の姓を賜った。 豊国神社(とよくに じんじゃ):祭神:豊臣秀吉公 神徳:開運・立身出世の神豊臣秀吉公は天下統一を達成し豊太閤と称えられる安土桃山時代の武将である。秀吉公は北野天満宮への崇敬がことのほか篤(あつ)く、天正15年(1587)には当宮境内地において北野大茶湯を催され、また天満宮本殿(国宝)の造営を遺命とされるなど数々の歴史的偉業を残された。 一夜松神社(いちやまつじんじゃ) 祭神:一夜千松の霊 神徳:延命長寿の神一夜千松の霊とは、北野天満宮創建に先立ち、「私の魂を祭るべき地には一夜にして千本の松を生じさせる」という道真公のお告げによって、この一帯に生えた松に宿る神霊をいう。境内に多い松の樹々は、この一夜千松の名残りとされる。 紅梅殿 西の広場 太鼓橋紅梅殿
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北野天満宮① 鳥居 参道
北野天満宮 鳥居 参道
北野天満宮
北野天満宮(きたのてんまんぐう)は梅と紅葉で有名な京都の神社です。菅原道真公をお祀りした神社の宗祀であり、「天神さん」と呼ばれ、親しまれています。アクセス方法・地図、お守りやお札等も掲載しております。
一の鳥居 影向松(ようごうのまつ) 影向松(ようごうのまつ) 表参道の大鳥居(一ノ鳥居)をくぐってすぐ右手に、石の玉垣で囲まれた一本の松が立っています。影向松と名付けられたこの松は、当宮の創建からこの地にあると伝わる御神木。立冬から立春前日までに初雪が降ると天神さまが降臨され、雪見を愛でながら詩を詠まれるという伝説があり、現在でも初雪が降った日には、硯と筆と墨をお供えして「初雪祭」の神事を行っています。 *影向(ようごう):神仏が仮の姿をとって現れること。神仏の来臨。 露の五郎兵衛記念碑 露の五郎兵衛記念碑 人艸(草)や 来た野(北野)の 露乃 五郎兵衛ごろびょうえ 1681~84年の頃、露の五郎兵衛という人が此処の神社境内で自作の笑い話をやり始め、それが落語になったという。 北野東向観音寺 本堂 礼堂 寺伝によると延暦25年(806)に桓武天皇の勅願にて建立された朝日寺を前身とする。天暦元年(947)に朝日寺の僧、最鎮らが天満宮を建立した後、応和元年(961)筑紫の観世音寺より菅原道真公直作の十一面観世音菩薩を請来し安置されている。応長元年(1311)、無人如導宗師むにんにょどうすうすが十一面観音を本尊として観音寺とした。古来より天満宮御本地仏・北野神宮寺または、北野奥之院と称し、本堂が東を向くことから「東向観音」と称される。本尊は秘仏で二十五年に一度の菅公御年祭の時に御開帳される。京都市
北野東向観音寺の公式ホームページです
観音寺は元は北野社の神宮寺であったが、十四世紀中頃に無人如導が中興して律宗となり、その後十七世紀になって豊臣氏が北野社を復興した際に当寺も整備されたと伝える。現在は真言宗泉涌寺派に属している。  当寺は本堂と礼堂(らいどう)は、造合(つくりあい)でつながれた複合形式の建物である。十七世紀前期に本堂が建てられ、元禄七年(一六九四)に礼堂と造合が本堂正面に増築された。 本堂は、丸柱上の組物を出組とする方三間の本格的な構造形式の仏堂である。一方参拝空間である礼堂は、角柱に舟肘木(ふなひじき)をのせる簡な形式になっており、仏の空間である本堂とは明確に建築手法を変えている。また礼堂正面の向拝(こうはい)は柱上に大斗(だいと)を据えず、絵様肘木(えようひじき)を柱頂部に落とし込む珍しい手法をとっている。当寺の本堂・礼堂はそれぞれ十七世紀前期および元禄期の建築様式をよくとどめている質の高い建物である。観音寺本堂・礼堂の駒札 末社 伴氏社(ともうじしゃ) 御祭神 菅原道真公の母君御神徳 子どもの成長と学業成就を守護例祭日 1月14日菅原道真公の母君が大伴氏の出身であることより伴氏社ともうじしゃと称するかつては、石造りの五輪塔が置かれていたが明治維新の神仏分離政策により、当社南隣の東向観音寺に移された。暖かい愛情と厳しいまなざしをもって菅公を優秀な青年官吏に育て上げられた母君を祀るこの神社は、わが子の健やかな成長と大成を願うお母様方の篤い信仰を集めている。神前の石鳥居は鎌倉時代の作で、国の重要美術品に指定されており、台座に刻まれた珍しい蓮弁により有名である。*大伴氏(おおともうじ)、のちに伴氏(ともうじ、ばんし)は、日本の氏族のひとつ。社頭駒札 北野大茶湯の址 さざれ石 北野大茶湯の址さざれ石 北野大茶湯の址(きたの-おおちゃの-ゆ-の-あと): 1587年10月1日,九州平定と聚楽第造営を記念して豊臣秀吉主催の大茶会が北野天満宮境内で行われた。千利休など堺の茶人をはじめ,全国から貴賤を問わず数寄者を集めたという。 さざれ石: 国歌「君が代」に詠まれる「さざれ岩」「君が代は千代(ちよ)に八千代(やちよ)にさざれ石の巌(いはほ)となりて苔のむすまで」あなたの命が、小さな石が長い年月をかけて大きな石となり、その石に苔がつくまで、永く永く続きますように。
護王神社|Goou Shrine
猪ゆかりの神社、足腰の守護神として親しまれる護王ごおう神社に行ってきました。
撫で牛 菅原道真が、丑歳の生まれで、牛は天神様のお使いと言われることが由来。子供連れや、立派な角で黒光りしているものなど、多様な撫で牛がたくさんあります。自分の身体の悪い箇所を撫でた後、牛の像の同じ箇所をなでると、自分の悪い箇所が治るとか、牛の像の頭を撫でると頭がよくなるといわれ、受験生をはじめ、たくさんの人が牛をなでていきます。なぜ牛は横たわっているかというと、大宰府で生涯を閉じた菅原道真の御遺骸を運んでいる途中、車を引く牛が座り込んで動かなくなったため、その付近にあった寺院「安楽寺」(現在の大宰府天満宮)に埋葬したという故事から。 アクセス 参拝者専用 駐車場 北野天満宮 参拝者専用 駐車場 無料 駐車場は無料です。 北野天満宮前交差点を北に入りすぐ駐車場入り口があります。                    
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護王神社|Goou Shrine
護王神社 猪ゆかりの神社、足腰の守護神として親しまれる護王ごおう神社に行ってきました。京都御所の近く、烏丸通り沿い下長者町通り南にあり、2019年 亥年には多くの初詣客でにぎわっていました。   桓武天皇に遷都を進言し、平安京の都造りを推し進めた和気清麻呂とその姉広虫(ひろむし)を祭神とする神社。もとは、高雄山神護寺の境内にあったが1886年(明治)にこの地に移された。 広虫が慈悲深く、京中の孤児を養育したことにより子育て明神と呼ばれ、育児の神として信仰される。拝殿の前に狛犬のかわりに猪像があるが、これは清麻呂を猪が守護したという故事にちなむ。11月1日に猪子祭(いのこさい)がある。 鳥居 表門 狛イノシシ 鳥居、拝殿の前には、狛犬の代わりに雄雌一対の狛イノシシがあります。 和気清麻呂公が京より宇佐へ向かわれた際、災難にあわれたのを300頭ものイノシシが現われて、清麻呂公をお護りしたこととあることから、崇敬者の声により、明治23年に建てられて、今では御王神社のシンボルとして親しまれている。 霊猪手水舎 霊猪手水舎 水の出ている猪の銅像は鼻を撫でると幸せが訪れると言われていて参拝者に親しまれているとのこと 拝殿 中門 祈祷殿 祈祷殿中門 招魂樹(おがたまのき)願かけ猪 座立亥串(くらたてぐし) ご本殿前にそびえたつ招魂樹(おがたまのき)の根本には、願かけ猪の石像があり、その周りには座立亥串(くらたていぐし)という、願かけの串がたくさん刺したててあります。自分の名前と願い事を書いた紙札をはさんど、願かけ猪の前に刺したてて願かけする。*招魂(しょうこん) 死者の霊を招いて祭ること。 飛翔親子猪 チェーンソーアート 世界チャンピオン 城所ケイジ氏作 彫刻 飛翔親子猪 テーマ「生命のよみがえり」この地にあった樹齢300年の桂の木を祈願殿建設に際し伐採した根株を彫刻。 和気清麻呂 和気清麻呂 紙幣 境内案内 さざれ石 国歌「君が代」に詠まれる「さざれ岩」「君が代は千代(ちよ)に八千代(やちよ)にさざれ石の巌(いはほ)となりて苔のむすまで」あなたの命が、小さな石が長い年月をかけて大きな石となり、その石に苔がつくまで、永く永く続きますように。 伊勢神宮揺拝所 カリンの木  いのししコレクション いのしし神社のおはなし 奈良時代・称徳すとく天皇の御代のこと。弓削道鏡(ゆげのどうきょう)という僧が法王となって絶大な権力を振るっていました。やがて道鏡は、天皇の位も奪おうと考え、「『道鏡を天皇にすれば天下は平和に治まる』と宇佐八幡よりご神託(神様のお告げ)があった」と天皇にウソを言います。 天皇は、ご神託が本当なのか迷いました。そこで、和気清麻呂公を呼び、九州の宇佐八幡へ行って確かめてくるよう命じました。清麻呂公は宇佐八幡へおもむき、ご神前に出て「真意をお教えください」と叫びました。すると、光り輝く宇佐の大神が現れ、「天皇の後継者には必ず皇族のものを立てなさい。道鏡のような無道の者は早く追放してしまいなさい」とご神託を下されました。 清麻呂公は都へ戻り、大神のご神託を天皇に報告しました。野望をくじかれた道鏡は激しく怒り、清麻呂公の足の腱を切った上、大隅国(鹿児島県)への流罪(るざい)としてしまいます。さらには、大隅国へ向かう清麻呂公を襲わせるために刺客を放ちました。 足の腱を切られ、立つことすらできなくなった清麻呂公ですが、皇室を守った大神に感謝するため、宇佐八幡へ立ち寄ることにしました。そして、一行が豊前国(福岡県東部)に至ると、どこからか三百頭ものいのししが現れました。いのししたちは清麻呂公の輿(こし=乗り物)の周りを囲み、道鏡の刺客たちから守りながら、十里(約40km)の道のりを案内してくれたのです。清麻呂公が宇佐八幡での参拝を終えると、いのししたちはどこかへ去っていきました。不思議なことに、清麻呂公の足の痛みは治り、再び歩けるようになっていました。 一年後、称徳天皇の崩御(ほうぎょ=亡くなること)によって、道鏡は関東へ左遷(させん)されます。都へ呼び戻された清麻呂公は、時の天皇の信頼を得て活躍し、晩年まで世のため人のために尽くしました。 清麻呂公の立派な人柄と、彼を守ったいのししのお話は、後世まで語り継がれることとなりました。清麻呂公を祀る護王神社には、狛犬の代わりに狛イノシシが建てられ、今も清麻呂公を護り続けています。(案内版より) アクセス
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