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金閣寺

世界遺産
通称:   金閣寺(きんかくじ)
公式名称: 鹿苑寺(ろくおんじ)

宗派:   臨済宗相国寺派

公式サイト:https://www.shokoku-ji.jp/kinkakuji/

金閣寺 コロナ禍 屋根葺き替え工事
舎利殿 コロナ禍の中、屋根葺き替え工事で全く観光客がいない。 2020年10月13日 火曜日に金閣寺に行ってきましたが、屋根葺き替え工事中、その他改修工事中のようで、ほとんど観光客はいない状態でした。少し、近畿近郊の学生が、修学旅行、遠足などで小学生から高校生ぐらいまでの団体を見るようになってきましたが、まだまだコロナ禍の中、以前のような活気はないですが、金閣寺は改修工事もあり、数組の観光客を観ただけでした。 当寺では、舎利殿(金閣)のこけら屋根葺き替え工事を下記の期間行います。工事予定期間:令和2年9月1日(火)~12月(※なお、工事期間は延長になる場合があります。)期間中は舎利殿周辺に足場を組み、シートで覆うため全貌をご覧頂く事ができません。代替として鏡湖池畔の踊り場に舎利殿の大型写真パネル(2.4m×3.6m)を設置して対応いたします。参拝者の皆様にはご迷惑をおかけいたしますが、予めご了承の上ご参拝くださいますようよろしくお願い申し上げます。https://www.shokoku-ji.jp/kinkakuji/ 大型バス駐車場、北大路通り沿い 金閣寺前駐車場もガラガラです。 黒門前にいつものように警備員の方が立っておられます。入るときに改修工事があって、金閣が見れない旨説明があります。 参道もこのような感じで工事中の為、柵が置いてあります。 舎利殿 展望場所 新しい順路 庭園 西側も整備工事中でいままでの最初の金閣 舎利殿展望場所への通路も変わってました。西側の端に出るような通路に変わっています。  一番西側 きれいな金閣 舎利殿 鏡湖池のおおきなパネルが立てて置いてあります。あと入場時に通常いただけるパンフレットとお札以外に絵葉書一枚(下記の写真)をもらえます。 舎利殿横に屋根葺き替え工事の説明が展示されています 庭園中のおみくじ 売店は営業してます。 コイン投げの場所は緑のシートでカバーされていました。 通常時 金閣寺不動釜茶所 お土産屋も営業中 お土産屋も営業していますが、通常、お酒やお漬物、八ッ橋などの露店が外にありましたが、今は無く。閑散としています。 御朱印所も営業されています。いつも行列ができていたのが嘘のようですね。 おみくじもまったく結ばれていなく、少し悲しい状態ですが、来年からは工事もコロナ禍も落ち着き、観光客が戻ってくることを心よりお祈りします。
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金閣寺周辺 参道 駐車場
総門 金閣寺 参道 周辺駐車場 世界文化遺産標識 舟形 一文字蹲踞(つくばい) 金閣寺のイチイガシ 金閣寺のイチイガシ唐門 イチイガシ 唐門 庫裏 唐門 受付庫裏 事務所 大型バス駐車場 周辺 大型バス駐車場 お土産屋&トイレ売店 トイレ 金閣寺 黒門前交差点 東向 西大路通りへ北向京都五山送り火 左大文字西向 金閣寺 黒門入り口前 交差点 北大路通 金閣寺前交差点 東向き金閣寺前交差点にあるよーじや交差点から西向き 黒門前へ北大路 金閣寺前 北向き左折して金閣寺第一駐車場へ北大路通 市内行きバス乗り場 北大路通(北行) 金閣寺前の駐車場 混雑時はこちらの駐車場に止めるのが良いが、大型バスで北大路通が渋滞してなかなか入れないときがある。今はコロナ禍と金閣寺修復工事期間で全く観光客はいないのでガラガラです。
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金閣寺の庭園 見どころ②
池泉回遊式庭園 見どころ② 夕佳亭(せっかてい) 夕暮れ時に、ここから金閣を眺めると、太陽が金閣の西の方へ沈み、美しい景色が眺められたのだろう。江戸時代の住職が、後水尾法皇を迎えるために当時の茶道家である金森宗和かなもりそうわに造られたもので、数寄屋造すきやづくりの趣のある茶室である。明治に焼失したため、現在の建物は1874年(明治7年)に再建されたものです。* 数寄屋造りとは、日本の建築様式の一つである。数寄屋風を取り入れた住宅の様式とされる。 語源の「数寄」とは和歌や茶の湯、生け花など風流を好むことであり、「数寄屋」は「好みに任せて作った家」といった意味で茶室を意味する。 貴人榻(きじんとう) 夕佳亭の横にある低い岩で、「榻」とは腰掛けのこと。貴人榻、文字どおり、身分の高い人の腰掛けとして使われていたもの。室町幕府より移設。 富士型手水鉢(ふじがたちょうずばち) 3代目義満公の孫、8代目将軍義政よしまさ公遺愛品。夕佳亭の前にあり、茶室に入る前に、手を洗うために使われるもの。手水鉢は蹲踞(つくばい)ともいいます。8代目の義政公は東山ひがしやまに銀閣寺ぎんかくじを建てましたが、金閣寺を参考にして、銀閣寺を建てたといわれています。 金閣寺不動釜茶所(きんかくじふどうがまちゃしょ) 不動堂の近くにある茶屋、店内でも店外でも良い雰囲気で金箔の入った和菓子とお抹茶のセットが500円で楽しめます。お菓子は金閣と鳳凰が型押しされ金粉がのっている金閣らしいお菓子です。 朱印所 お土産屋 お土産屋朱印所 納経所 不動堂(ふどうどう) 金閣寺の前の西園寺の別荘時代にも不動堂の名があったといわれています。義満没後は荒廃したが、天正年間(16世紀後半)に宇喜田秀家うきたひでいえによって再建されたという。 不動堂には江戸時代からすでに秘仏とされている御本尊、不動明王立像ふどうみょうおうりゅうぞう(石不動)があります。石室に安置され、普段石室の入り口は扉で閉ざされているそうです。あともう一体、鎌倉時代に造られた木造の不動明王立像もあり、もとは西園寺家が所有していたものと言われています。* 不動明王: 密教特有の尊格である明王の一尊。大日如来の化身とも言われる。また、五大明王の中心となる明王でもある。不動明王は仏法の障害となるものに対しては怒りを持って屈服させますが、仏道に入った修行者には常に守護をして見守ります。 荼枳尼天(ダキニテン) 梵語ぼんご(サンスクリット語)ではダーキニーと言い、元は夜叉神やしゃじんであったが、大黒天により善神となり、中世以降の日本では荼枳尼天(ダキニテン)が乗る霊狐れいこを稲荷神の使いの狐と結び付け、稲荷神として祀られるようになったそうです。*夜叉: インド神話においては、残虐かつ暴力的な悪鬼として扱われていたが、仏教に帰依してからは、法や宝物を守護し人々に恩恵を与える守護神になり、また八部衆の一員にも数えられている。 大黒天もとはヒンドゥー教の破壊神シヴァの化身で、破壊と戦闘を司る神マハーカーラが前身とされています。そのため、初期の大黒天は大日如来の命で荼枳尼天(だきにてん)を降伏させるなど戦闘色の強い神であり、大黒天に祈ると必ず戦いに勝つといわれました。日本では「だいこく」が日本神話の祭神・大国主命(おおくにぬしのみこと)と通じることから習合されるようになりました。五穀豊穣と財福の神として独自に発展し、七福神の1人に数えられるようになったといわれています。https://www.butuzou-world.com/dictionary/ten/daikokuten/
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金閣寺の庭園 見どころ①
池泉回遊式庭園 見どころ①
金閣寺 | 臨済宗相国寺派
正式名称を鹿苑寺といい、相国寺の塔頭寺院の一つ。舎利殿「金閣」が特に有名なため一般的に金閣寺と呼ばれています。
池泉回遊式庭園 鏡湖池 金閣寺の庭園は、衣笠山きぬがさやまを借景しゃっけいとし鏡湖池きょうこちを中心とした池泉回遊式庭園。鏡湖池は鏡のように金閣を映しだします。*池泉回遊式庭園ちせんかいゆうしきていえん :日本庭園の形式のひとつで、園内を回遊して鑑賞する庭園*借景しゃっけい式庭園 :日本庭園や中国庭園における造園技法で庭園の構成に背景景観を取り入れる 葦原島(あしはらじま) 鏡湖池の真ん中にある一番大きな島が、葦原島とあしはらじま呼ばれている。松や石組のほかにも石燈篭があります。この葦原島は神仙しんせん思想のもとに造られた島であり、神話言葉で”豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)”という日本国を表すことばがあり、葦原島は日本国を表現して造られたともいわれているとのこと。*神仙思想:蓬萊ほうらい(仙人せんにんが住むといわれていた仙境せんきょうの1つ)など超自然的な楽園と、そこに住む神通力をもった神仙の実在を信じる中国古代の民間思想。 この信仰に基づいて不老不死の薬が探索され、養生法が説かれた。 方丈(ほうじょう) 金閣寺の本堂にあたる。1678年、後水尾ごみずお天皇の寄進きしんにより再興さいこうされた。  *方丈:禅宗寺院建築で本堂,客殿,住職居室を兼ねるもの本尊、聖観世音菩薩坐像しょうかんぜおんぼさつざぞうが安置されている。 陸舟の松(りくしゅうのまつ) 方丈の庭園にある陸舟の松は樹齢600年で、義満遺愛の盆栽だった五葉松ごようまつから移したものと伝わる。極楽浄土に向かう舟を表す。 お守り 売店 銀河泉(ぎんがせん) 義満がお茶の湯につかったとされる小さな泉。 巖下水(がんかすい) 義満がお手洗いとして使った水。 金閣寺垣と虎渓橋 龍門滝の左側山畔に石段があります。この小さな石橋を中国の故事、虎渓三笑にちなんで虎渓橋(コケイキョウ)といいます。その両側に低い竹垣があり、右と左の組み方が違うのが特徴です。これが金閣寺垣と称され小竹垣の代表とされています。 龍門の滝(りゅうもんのたき) 鯉が滝を登りきると龍になるという、中国の故事「登竜門とうりゅうもん」に因んで、滝つぼには鯉魚石りぎょせきが置かれています。いままさに跳ね上がらんとする龍の姿が、滝壷の所に斜めに傾いた動きのある石で表されています。 安民沢(あんみんたく) 白蛇の塚 安民沢(アンミンタク)という池で、金閣の北の一段高い場所にある、西園寺さいおんじ家の別荘時代の遺構と言われている池。池の真ん中に、西園寺家の鎮守ちんじゅ と言われている白蛇の塚はくじゃのつかという名の多宝たほう石塔せきとうがある。白蛇は古くは水神様として信仰されており安民沢にも守り神として白蛇の塚が建てられている。*弁財天(弁天様)水の神様にして芸能の神様で弁天様のお使いは蛇。干ばつの時でも安民沢の水はなくならず、湧き出ていたとのこと。
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金閣寺の庭園と見どころ
金閣寺の庭園 池泉回遊式庭園 鏡湖池 金閣寺の庭園は、衣笠山きぬがさやまを借景しゃっけいとし鏡湖池きょうこちを中心とした池泉回遊式庭園。 *池泉回遊式庭園ちせんかいゆうしきていえん *日本庭園の形式のひとつで、園内を回遊して鑑賞する庭園 *借景しゃっけい式庭園 *日本庭園や中国庭園における造園技法で庭園の構成に背景景観を取り入れる鏡湖池は鏡のように金閣を映しだします。 葦原島(あしはらじま) 鏡湖池の真ん中にある一番大きな島が、葦原島とあしはらじま呼ばれている。松や石組のほかにも石燈篭があります。この葦原島は神仙しんせん思想のもとに造られた島であり、神話言葉で”豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)”という日本国を表すことばがあり、葦原島は日本国を表現して造られたともいわれているとのこと。 *神仙思想:蓬萊ほうらい(仙人せんにんが住むといわれていた仙境せんきょうの1つ)など超自然的な楽園と、そこに住む神通力をもった神仙の実在を信じる中国古代の民間思想。 この信仰に基づいて不老不死の薬が探索され、養生法が説かれた。 方丈(ほうじょう) 金閣寺の本堂にあたる。1678年、後水尾ごみずお天皇の寄進きしんにより再興さいこうされた。  *方丈:禅宗寺院建築で本堂,客殿,住職居室を兼ねるもの本尊、聖観世音菩薩坐像しょうかんぜおんぼさつざぞうが安置されている。 陸舟の松(りくしゅうのまつ) 方丈の庭園にある陸舟の松は樹齢600年で、義満遺愛の盆栽だった五葉松ごようまつから移したものと伝わる。極楽浄土に向かう舟を表す。 銀河泉(ぎんがせん) 義満がお茶の湯につかったとされる小さな泉。 巖下水(がんかすい) 義満がお手洗いとして使った水。 龍門の滝(りゅうもんのたき) 鯉が滝を登りきると龍になるという、中国の故事「登竜門とうりゅうもん」に因んで、滝つぼには鯉魚石りぎょせきが置かれています。 安民沢(あんみんたく) 金閣の北の一段高い場所にある、西園寺さいおんじ家の別荘時代の遺構と言われている池。池の真ん中に、西園寺家の鎮守ちんじゅ と言われている白蛇の塚はくじゃのつかという名の多宝たほう石塔せきとうがある。白蛇は古くは水神様として信仰されており安民沢にも守り神として白蛇の塚が建てられている。*弁財天(弁天様)水の神様にして芸能の神様で弁天様のお使いは蛇。干ばつの時でも安民沢の水はなくならず、湧き出ていたとのこと。 夕佳亭(せっかてい) 夕暮れ時に、ここから金閣を眺めると、太陽が金閣の西の方へ沈み、美しい景色が眺められたのだろう。江戸時代の住職が、後水尾法皇を迎えるために当時の茶道家である金森宗和かなもりそうわに造られたもので、数寄屋造すきやづくりの趣のある茶室である。明治に焼失したため、現在の建物は1874年(明治7年)に再建されたものです。* 数寄屋造りとは、日本の建築様式の一つである。数寄屋風を取り入れた住宅の様式とされる。 語源の「数寄」とは和歌や茶の湯、生け花など風流を好むことであり、「数寄屋」は「好みに任せて作った家」といった意味で茶室を意味する。 富士型手水鉢(ふじがたちょうずばち) 3代目義満公の孫、8代目将軍義政よしまさ公遺愛品。夕佳亭の前にあり、茶室に入る前に、手を洗うために使われるもの。手水鉢は蹲踞(つくばい)ともいいます。8代目の義政公は東山ひがしやまに銀閣寺ぎんかくじを建てましたが、金閣寺を参考にして、銀閣寺を建てたといわれています。 貴人榻(きじんとう) 夕佳亭の横にある低い岩で、「榻」とは腰掛けのこと。貴人榻、文字どおり、身分の高い人の腰掛けとして使われていたもの。室町幕府より移設。 金閣寺不動釜茶所(きんかくじふどうがまちゃしょ) 不動堂の近くにある茶屋、店内でも店外でも良い雰囲気で金箔の入った和菓子とお抹茶のセットが500円で楽しめます。お菓子は金閣と鳳凰が型押しされ金粉がのっている金閣らしいお菓子です。 不動堂(ふどうどう) 金閣寺の前の西園寺の別荘時代にも不動堂の名があったといわれています。義満没後は荒廃したが、天正年間(16世紀後半)に宇喜田秀家うきたひでいえによって再建されたという。 不動堂には江戸時代からすでに秘仏とされている御本尊、不動明王立像ふどうみょうおうりゅうぞう(石不動)があります。石室に安置され、普段石室の入り口は扉で閉ざされているそうです。あともう一体、鎌倉時代に造られた木造の不動明王立像もあり、もとは西園寺家が所有していたものと言われています。* 不動明王: 密教特有の尊格である明王の一尊。大日如来の化身とも言われる。また、五大明王の中心となる明王でもある。不動明王は仏法の障害となるものに対しては怒りを持って屈服させますが、仏道に入った修行者には常に守護をして見守ります。
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舎利殿 説明
金閣 舎利殿
舎利殿 舎利殿しゃりでんにはお釈迦様おしゃかさまの遺骨いこつをおさめて祀まつっている。*舎利=聖者の遺骨。塔におさめてまつる。金閣 舎利殿が目立ちすぎで、お寺も金閣寺と呼ばれているが公式名称は鹿苑寺ろくおんじ。実際に舎利殿の中に入ることはできない。 一階 寝殿造しんでんづくりり 法水院ほうすいいん二階 書院造りしょいんづくり 潮音洞ちょうおんどう三階 禅宗佛殿ぜんしゅうぶつでん造り 究竟頂くっきょうちょうで中には佛舎利ぶっしゃりをおまつりしています。鹿苑寺ろくおんじ 一階(法水院) *法水:衆生の煩悩(ぼんのう)を洗い清めるのを、水 にたとえていう語 公家様式、貴族の寝殿造りで船もつけられるようになっている。中には釈迦如来と義満が座っている。 二階 潮音洞(ちょうおんどう) * 潮音:仏・菩薩が、時に応じて衆生を導き恵みを与えることを、潮が時を定めて干満するのにたとえた語書院造りで武士の様式。岩屋観音坐像いわやかんのんざぞう と四天王してんのう。観音:人々の声を観じて、その苦悩から救うという慈悲深い菩薩四天王:東西南北の四方に住む仏法の守護神。東の持国天,南の 増長天,西の広目天,北の多聞天 (→毘沙門天 )  三階 究竟頂(くっきょうちょう)*究竟=究極 禅宗佛教ぜんしゅうぶっきょうの様式。花頭窓かとうまどが特徴。床は黒漆くろうるしで塗られていて、天井と壁は金箔きんぱくが貼られてている。中央には仏舎利ぶっしゃり、仏の遺骨を安置してある。 鳳凰 鳳凰ほうおうとは中国の伝説上の生き物で別名不死鳥ふじちょう。 鳳凰は永遠の命と権力の象徴であり、南方の守護神である。金閣寺を災いから守り、永遠に繁栄するように願ったものといわれいます。もう一つの説は、鳳凰には聖天子があらわれる時に姿をあらわすとされ権力の象徴でもあることから、義満自身が天皇より天子にふさわしいという意味がこめられていたといわれています。
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金閣寺 アイキャッチ画像
金閣寺はいつ、なぜ建てられたのだろう?
室町時代、三代目将軍、足利義満によって京都の北山に建てられたが、なぜ義満は金閣寺を建てたのだろう? 室町むろまち時代、室町幕府 時代は14世紀、1300年代。武家政権だった鎌倉幕府かまくらばくふの時代が終わる。鎌倉時代は武家が権力を持った武家の時代、その鎌倉幕府を倒した後醍醐ごだいご天皇は天皇中心の政治への復活を目指すが、実際は公家くげ中心の政治となる。 * 公家とは? ”日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称” そこで、武士たちの反感が強まり鎌倉幕府を倒したときの立役者だった武家の足利尊氏あしかがたかうじは後醍醐天皇にそむき、新たに京都に光明天皇を立てる(北朝)、後醍醐天皇は奈良の吉野に逃れ、後醍醐天皇(南朝)を立て、対立することになり南北朝なんぼくちょう時代が始まります。 1338年、足利尊氏は北朝から征夷大将軍せいいだいしょうぐんに任命され、その後、京都の室町に幕府を開くことになり室町幕府が始まります。   * 征夷大将軍=幕府の長である者。朝廷から任ぜられ、武力を握り、政治の実権を持っている将軍こと。 しかし一代目、尊氏の時代はまだ将軍と言っても、有力守護大名しゅごだいみょうに気を使いながらの政策で、南朝には強敵、楠木正成くすのぎまさしげ、新田義貞にった よしさだがおり、全国の武士を統合できるような権力はなかった。 * 守護大名とは? 軍事・警察権だけでなく、経済的にも権力を獲得し、その国の領主のようになった大名のこと。 しかし時代がたつにつれ、三代目義満の時代になると、強敵もなくなり、南朝の勢いがなくなり、有力守護大名もうまく従わせて政策を行えるようになり、武家としては異例の太政大臣だいじょうだいじんも兼務し、公家と武家の両方の頂点に立ち、南北朝の統一も実現させる。  * 太政大臣とは? 日本の律令制における司法・行政・立法を司る最高国家機関、太政官の長官。朝廷の最高職。  * 律令制とは? 律は刑罰に関する法律、令はその他の法律(行政など)のことです。法律が整っている国家体制のことです。 南朝も制した義満には権力が集中し、義満の政権基盤は絶頂期で、その権力の象徴が金閣寺舎利殿しゃりでんで、自分の権力を誇示したといわれている。 * 舎利殿とは? ”仏舎利ぶっしゃりを安置した建物。一般に方形で、中央に舎利塔を置く”   ”仏舎利は釈尊、仏様の遺骨をいい,それを安置した塔を舎利塔などと称する。” 義満の院政いんせいの場所として活躍した金閣寺 室町幕府の全盛期を築いた三代目義満は1394年に将軍職を子の義持よしもちに譲り、太政大臣となり、実験を持ったまま翌年には出家し院政をする。* 院政 上皇や法皇が天皇に代わって院中で行った政治(の形態)。平安時代中期、白河(しらかわ)上皇に始まる。また比喩的に、いったん引退したはずの人が実権を握って取り仕切ること。 1397年にもともと平安貴族の遊楽の地で鎌倉時代の公家、西園寺公経さいおんじきんつねが築いた豪華な山荘の北山第きたやまだいを手に入れ、金閣 舎利殿しゃりでんを中心に改築と新築をおこない翌年1398年に完成したのが金閣、山荘北山殿きたやまでんです。義満はこの金閣寺で政務を行い、公家貴族を集めて和歌や猿楽さるがくを催し、伝統的な公家の文化と新しい武家の文化を融合した北山文化と呼ばれる華やかな時代を築く。義満は北山殿きたやまどのとよばれ君臨した。 * 猿楽から歌舞中心の楽劇が発達して「猿楽の能」と呼ばれ、足利義満の時、観阿彌かんあみ、世阿彌ぜあみらの出現によって芸能として完成した。 また義満は日明にちみん貿易(勘合かんごう貿易)で巨額の富を築く。義満の本邸となった北山殿きたやまでんは中国明国の使節の送迎など公的な場としても使われました。 ちなみに明から輸入されたものは、銅銭、生糸、薬草、砂糖、青磁器、書画、漆器など、一方日本から輸出されたものは、銅、刀剣、蒔絵、扇、純金など。 * 勘合貿易とは?   当時日本と中国の間に、倭寇わこうと呼ばれる水軍が力を持ち、海賊となって中国船を襲ったりしていたため、海禁政策をとり、他国との自由な渡航や貿易を禁止したため、義満は日本と明との貿易には勘合札かんごうふの割符わりふ、通行許可書を持った者だけがおこなえるようにした。 後小松ごこまつ天皇の行幸 1408年 21日間にわたる、皇室史上最高の後小松天皇の行幸が行われる。天皇が20日も外泊するとは、義満の権力の絶大だったことがわかる。ちなみに江戸初期 3代目徳川家光の時の後水尾天皇の二条城行幸は、徳川家の威信をかけたものだったが、4泊ほどだったと示されている。 この後ほどなくして義満はなくなり、子の義持は義満の遺言により夢窓漱石むそうそうせきを開山として北山殿を禅寺に改め、義満の法号ほうごう鹿苑院ろくおんいんから鹿苑寺ろくおんじとなる。 焼失と再建 その後、金閣寺は応仁の乱で多くの堂を失うが、江戸初期に後水尾天皇の援助により再建される。 1950年(昭和25年)には若い僧によって放火され、全焼する。 1955年に復元される。 三島由紀夫の”金閣寺”、水上勉の”金閣炎上”がこの事件に関して執筆しっぴつしている。 さらに1986年日本経済がバブルの時に大規模な修復がなされる。総工費約7億4千万円。金箔約20万枚、重さにして約20kgの金が使用。金箔の厚さも約5倍になったものが2重に貼られているらしい。現在もキラキラと黄金の輝いているのは室町時代、江戸時代、昭和のバブル経済のおかげなんだと思う。 北山文化:室町時代,3代将軍足利義満が京都北山に営んだ山荘(→北山殿)を中心に展開された文化。室町時代中期に発展した 8代将軍足利義政の東山文化に対していう。義満は幕府の組織を整え,南北朝の統一を実現し,室町幕府の最盛期を現出した。花の御所(→室町殿)を営み,明との国交が回復して大陸文化が流入すると,義満を中心に芸能が盛んになった。このような北山文化は,従来の公家的なものと武家的なものとを融合したところに特徴がある。その代表的なものは,北山殿の一部に営まれた金閣(→鹿苑寺)である。貴族の寝殿造と武家造の風格,そして禅寺の静かな落ち着きが混然融合して統一のとれた建築美を示し,周囲の林泉美と調和している。芸能面では,幽玄と花(華麗)の 2要素を根底とした能楽が観阿弥,世阿弥によって大成され,義満の保護のもとに芸術的大成を遂げた。文学面では,京都,鎌倉五山の禅僧を中心とした学問,いわゆる五山文学の興隆がある。 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
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Kinkakuji-icatch
金閣寺-名前について
金閣寺 黄金の楼閣 まず ”金閣寺 そもそも金閣寺という名前、漢字はどういう意味なのか? あえて金閣寺の”閣”を調べてみる。「”閣” 二階づくりのりっぱな御殿。たかどの。貴人の住む所。」と書いてある。まあ、重層で貴人の住む建物のことみたい。 では金閣寺の英語はGolden Templeでいいと思うが、なんで金閣寺はGolden Pavilionと訳されている? Pavilionを調べると “大型テント 休憩所、付属建物 (観覧席・選手席などに使う), (博覧会の)展示館, パビリオン” などの意味があり、あとは (本館から突き出た)別館.という意味もある。 金閣寺、お寺の本堂は東側にある方丈ほうじょうという建物で、金閣ー舎利殿しゃりでんは別館、離れの建物のため、あと展示としての役目を演じているからPavilionと訳されているのだろう。 あと通称 金閣寺とよばれているが正式名称は鹿苑寺ろくおんじ。 これは金閣ー舎利殿が有名なため金閣寺とニックネームがついた感じであり、正式名称は鹿苑寺。 鹿苑寺という名前の由来を調べると、「鹿苑寺という寺名になるのは、義満の死後のことで、義満の法号鹿苑院から由来しています。 」とある。 ”法号” は、”僧が死者に与える名” 義満が死後、僧侶、仏様からいただいた名前が、鹿苑院ろくおんいんという名で、お寺の名前は鹿苑寺という名前がついた。 ちなみに鹿苑をしらべてみると、 鹿苑とは「鹿野苑」からきているそうで、お釈迦様は悟りを開いた後、鹿野苑で初めて説法をしたと言われてて仏教の「聖地」のようです。
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