哲学の道 若王子神社
熊野若王子神社(にゃこうじさん)
若王子橋 京の名木 梛
京の銘木 梛(なぎ)【京都府内で最も古い梛の大木】 この木は当社の神木であって古来紀州熊野三山詣、伊勢参宮などの折、ミソギの木として用いられた珍しい樹木である。樹齢については明確な記録はないが、4百有余年と推測される。又、この石橋は明歴2年(1656年)7月吉良家より寄進されたもので、その折紀州熊野より苗木を植樹されたものである。
新島襄(にいじまじょう)の墓 石碑
背後の若王子山頂には、同志社英学校(同志社大学の前身)の創立者である新島襄(にいじまじょう)の墓がある。
恵比寿殿
当若王子神社の末社 夷川社の御祭神であります恵比須神像は木造寄木造り等身大の座像で、社宝の御神体として祀られ現在も多くの崇敬者より篤く信仰されて居ります。宝歴十一年(一七六一年)に書かれた「京町鑑」には「古老云、往古西洞院中御門-今いう椹木町-に北山の下流あらはれ、又この辺に蛭子(エビス)社有りしゆえ恵比須川と號し、其後次第に人家建つゞきしゆえ通りの名とす、應仁の乱に此社亡滅し、川も埋れ侍りしが不思議に蛭子の神像残り……云々」とあり、この御神像が当社に祀られたと伝えられている。
手水舎 若王子撫で牛
旧若王子橋の高欄の石づくりの手すり
ここに設置されている石づくりの手すりは、元は若王子橋の高欄として大正9年6月より使用していたものですが、平成5年3月に橋を改良し、その役目を立派に果たし終えたので、この若王子神社の境内をかりて移設したものです。
拝殿
ご祭神
国常立神/国常立尊(くにのとこたち)伊弉諾尊/伊邪那岐命(いざなぎ)伊弉冉尊/伊邪那美命(いざなみ)天照大神(あまてらすおおかみ)事代主神(ことしろぬしのかみ)[通称]恵比寿神
当社は永歴元年(1160年)に、後白河法皇が熊野権現を勧請して建立した若王子の鎮守社で社名は天照大神の別称、 若一王子に因んでこのように名付けられたという。以後、室町幕府及び武家の信仰を集めると共に花見の名所としても知られ、 寛正6年(1465年)3月には、足利義正により花見の宴が催されたその後、応仁の乱により社殿は荒廃したが、 豊臣秀吉により再興され社殿及び境内が整備された。現在の社殿は昭和54年(1979年)一社相殿に改築されたもので以前は本宮・新宮・那智・若宮の四棟からなっていた。
宝形
ここに設置されている宝形(ほうぎょう)は当神社の境内に昔 地仏堂がありその屋根の上の部分を残したものです。地仏堂には薬師如来坐像が安置されておりましたが明治四年神仏分離の際この地から移された後 国宝として現在奈良国立博物館に所蔵されています。
アクセス
南禅寺 ① 山門 法堂 水路閣
山門 法堂 水路閣
南禅寺全景
南禅寺 臨済宗南禅寺派の大本山での正応4年(1291)亀山法皇の離宮の地を賜り、無関普門むかんふもん(大明国師)規庵祖円きあんそえん(南院国師)によって創建された。以来歴朝の勅願所として、また、中世五山制度が行われると「五山之上」という最高位に列せられ天下の尊崇そんすうを得て今日に及んでいる。 勅使門、三門は重要文化財に大方丈(清涼殿)小方丈は国宝に指定され、内部の襖絵の多くは重要文化財に指定されている。方丈前庭は小堀遠州作「虎の子渡し」といい代表的な枯山水庭園として有名である。 京都市
山門
三門とは、仏道修行で悟りに至る為に透過しなければならない三つの関門を表す、空、無相、無作むさの三解脱門を略した呼称です。*無相:姿・形のないこと。一切の執着を離れた境地。 無作:人為的な働きのないこと。自然のまま。山門とも書き表され、寺院を代表する正門であり、禅宗七堂伽藍しちどうがらん(山門、仏殿、法堂はっとう、僧堂そうどう、庫裏くり、東司とうす、浴室)の中の一つです。*法堂:僧侶が仏教を講義する建物。主に禅宗寺院、そのほかの宗派では講堂(こうどう)。*僧堂:修行者(僧侶)が集団生活を行いながら仏道修行に励む場。禅宗寺院で、坐禅や起居する建物*庫裏:食事を調える建物。住職やその家族の住む場所。*東司:寺院における便所南禅寺の三門は別名「天下竜門」とも呼ばれ、上層の楼を五鳳楼ごほうろうと呼び、日本三大門の一つに数えられます。 開創当時のものは永仁3年(1295)西園寺実兼の寄進によって創立され、ついで応安年間に新三門へと改築されましたが文安四年の火災で焼失しました。現在の三門は寛永5年(1628)藤堂高虎が大阪夏の陣に倒れた家来の菩提を弔うために再建したものであり、禅宗様式独特の圧倒的な量感と列柱群が力強さを示しています。また、歌舞伎「楼門五三桐さんもん ごさんの きり」の石川五右衛門の伝説で有名です。山門楼上内陣の正面には仏師左京等の手になる宝冠釈迦座像を本尊とし、その脇士に月蓋長者、善財童士、左右に十六羅漢を配置し、本光国師、徳川家康、藤堂高虎の像と一門の重臣の位牌が安置されています。また天井の鳳凰、天人の極彩色の図は狩野探幽、土佐徳悦の筆とされています。三門の構造は五間三戸二階二重門、入母屋造、本瓦葺、高さは約22メートルです。両側に山廊があり、この山廊はそれぞれ桁行三間、梁間二間、一重、切妻造、本瓦葺となっています。明治32年(1899)国指定重要文化財となりました。門前右方の巨大な石灯籠は寛永5年の三門落慶の際に佐久間勝之が供養の為に奉献したもので、高さ6メートル余りあり、大きさでは東洋一といわれています。俗に佐久間玄藩の片灯寵と呼ばれています。 またその銘文は崇伝によるものとされています。http://www.nanzen.net/keidai_sanmon.html
2017年3月初旬
法堂
法堂は、法式行事や公式の法要が行われる場所であり、南禅寺の中心となる建物です。創建当時のものは、応仁、文明の乱で焼失しましたが、文明11年(1479)頃に復興されました。その後、慶長11年(1606)豊臣秀頼の寄進により大改築されましたが、明治26年(1893)の火災によって焼失しました。現在の法堂は明治42年(1909)に再建されたもので、内部の須弥壇上中央に本尊釈迦如来、右側に獅子に騎る文殊菩薩、左側に象に騎る普賢菩薩の三尊像を安置し、床は一面の敷瓦となっております。屋根は林立する巨大な欅の円柱に支えられ、天井には今尾景年いまおけいねん画伯畢生の大作と云われる幡龍が描かれています。明治42年の創建以来80余年を経て、雨もりがするようになり、平成2年、開山大明国師700年大遠忌記念行事として、屋根茸替え工事及び敷瓦取り替え工事を行い、平成2年落慶法要が営まれました。http://www.nanzen.net/keidai_hatto.html
史跡琵琶湖疏水のうち「水路閣」
史跡琵琶湖疏水のうち「水路閣」 疏水事業は,京都府知事北垣国道の発意により.田辺朔郎工学博士を工事担当者として.明治18年に起工され,同23年に竣工した。 水路閣は,この疏水事業の一環として施工された水路橋で,延長93.17メートル,幅4.06メートル,水路幅2.42メートル,煉瓦造,アーチ構造の優れたデザインを持ち,京都を代表する景観の一つとなっている。 また,ここから西500メートルにあるインクラインは,高低差のある蹴上の舟だまりと南禅寺の舟だまりを結ぶ傾斜地に上下2本のレールを敷き.艇架台により舟を運ぶ施設で,当時の舟運による交通事情がよくうかがえる。 いずれも,西欧技術が導入されて間もない当時,日本人のみの手で設計,施工されたもので,土木技術史上.極めて貴重なものであり,昭和58年7月1日に「疏水運河のうち水路閣及びインクライン」として京都市指定史跡に指定された。 また,平成8年6月には,この水路閣,インクラインに加え,第1疏水の第1・第2・第3隧道の各出入口,第1竪坑,第2竪坑,明治36年に架設された日本初の鉄筋コンクリート橋(日ノ岡第11号橋),同37年架設の山ノ谷橋などが日本を代表する近代化遺産として国の史跡に指定された。 京都市
駒ヶ瀧本堂最勝院
【當寺の由来】此処より奥駒ヶ滝最勝院こまがたきさいしょういん一帯の山峡は古く鎌倉時代より「神仙佳境」と呼ばれ、最勝院駒道智大僧正の霊地として広く世間に知られています。駒道智大僧正は、今を距る七百数十年前摂政関白九条道家の子に生れ、幼なくして比叡山に登り仏道修行の道に入られ、天台密教の深奥を極めた人であります。後三井寺の長更(管長)となり、更に当時天台密教の寺であった禅林寺の住持に移られました。晩年世をいといこの駒ヶ滝最勝院の地に穏棲されましたが、文永三年三月三日ついに秘密の法力により白馬にまたがり生身を天空にかくされたと伝えられています。それ以来滝を駒ヶ滝(これより奥約二〇〇米)僧正を駒大僧正といい、又院号をとって僧正をまつる寺を最勝院と呼ぶことになりました。鎌倉時代末文永年間亀山天皇が此の下に離宮を建てられると僧正を土地の鎮守として篤くまつられ、更に離宮を革めて禅寺を創建して南禅寺の基を開かれると、僧正は護法神としてまつられました。爾来七百年南禅寺一山の崇敬はもとより、広く京都の人々の信仰の一中心となり、古来勝運の神として参詣者が跡を絶ちません。当寺は即ち駒大僧正をまつった本堂であり、駒ヶ滝はその奥の院であります。明治の末年迄はこの下の南禅寺寺務所の地にあり最勝院般若殿と呼ばれていましたが、大正六年夢想国師の塔所上生院の故地である現在の地に移転したのであります。
駒ヶ瀧本堂最勝院
アクセス
臨済宗大本山 南禅寺
臨済宗大本山 南禅寺 公式サイト
哲学の道 鹿ヶ谷
去年 2019年4月5日
哲学の道
明治23年(1890年)東山山麓に完成され、明治45年(1912年)に延伸された琵琶湖 疏水分線沿いの桜並木の散策路(若王子橋から浄土寺橋の間約1.8km)です。 近隣には世界遺産の銀閣寺をはじめ、著名な社寺が点在し、京都の伝統的な歴史や 文化が今も息づいています。昭和43年(1968年)地元住民の熱意あふれる環境保全整備の声に、京都市が応え、 散策路として、昭和47年(1972年)に完成しました。 以来、住民や上下水道局による献身的な清掃や保全整備が図られ、「春の桜」「夏の養」 「秋の紅葉」「冬の雪景色」など、四季折々に市民や観光客の方々に、憩の場として喜ば れています。昭和61年(1986年)「日本の道百選」に選ばれました。
桜の時期の”哲学の道”
大豊神社 哲学の道の「ねずみの社」
大豊神社 鹿ケ谷・南禅寺一帯の産土の神
哲学の道 大豊神社 一の鳥居 御旅所
南北
大豊橋 社碑 参道
御祭神:少彦名命、応神天皇、菅原道真公
この神社は少彦名命すくなひこなのみこと、応神天皇、菅原道真を祀っている。社伝によると、応和3年(887)宇多天皇の病気平癒のため尚侍(ないしのかみ/しょうじ)、藤原淑子(しゅくし/よしこ)が勅命を奉じた勅願社であり、朝野の信仰が篤かった。建武の内乱、応仁の兵火などに遭って焼失したが、本殿・末社・幣殿・絵馬堂が再建され、鹿ヶ谷法然院・南禅寺一帯の産土神として信仰を集めている。*尚侍とは、日本の律令制における官職で、内侍司の長官(かみ)を務めた女官の官名。 特に末社の大国主社の狛鼠、日吉社の狛猿、愛宕社の狛鳶とびはそれぞれの神のお使いとして有名である。また、神花として椿、枝垂れ紅梅、紫陽花あじさいや山野草さんやそうが四季折々参拝者の心を和ませている。 更に椿の名所としても知られている。 京都市
参道 二の鳥居
拝殿
商売繁盛 稲荷社
縁結び 子授け 安産 大国社
愛宕社 日吉社
銀閣寺② 本殿~東求堂~仙人洲
本殿~東求堂~仙人洲
本殿
銀閣寺形手水鉢
東求堂(とうぐどう)
東求堂 白鶴島 錦鏡池
錦鏡池(きんきょうち)白鶴島(はっかくとう)
仙人洲(せんにんす)
洗月泉(せんげつせん)
弁財天
お茶の井庭園 漱蘚亭跡
お茶の井庭園この庭園石組は昭和六年に発掘され、竹亭漱蘚亭 (そうせんてい)跡であり西芳寺 (苔寺 )の竜淵水りゅうえんすい 石組を模範に作られたとされる庭園である。又、井泉は義政公愛用のお茶の井跡で、水質も豊かで、現在もお茶会等の飲料水として使用されている。泉辺の石組みは、当時の遺構そのままであり、茶庭の蹲踞(つくばい)手水鉢前の源流とされる。
展望所
仙人洲(せんにんす) 銀閣(観音殿)
銀閣の屋根杮葺(こけらぶき)と言い、サワラの薄い割り板を3センチずつずらしながら重ね、竹釘でとめていく工法にて葺かれています。
杮葺(こけらぶき)
銀閣寺③ 浄土院 八神社
浄土院 八神社
銀閣寺総門前
東向き北向き西向き
浄土院(清泰山)
浄土院(じょうどいん)「清泰山(せいたいざん)と号する浄土宗知恩院派の寺である。 この地には、もと浄土寺と呼ばれた天台宗の寺院があったが、文明14年(1482)東山殿(後の銀閣寺)造営に際し、相国寺の西に移された。 当院は、その跡地に残された草堂を泰誉承久(たいよじょうきゅう)が浄土宗の寺として復興し、浄土院と名付けたことによるといわれている。その後、享保17年(1732)には、随誉(ずいよ)により堂宇が再建され、今日に至っている。本堂に安置する阿弥陀如来坐像は、等身大のもので、もと浄土寺にあった遺仏といわれている。 また、当院は、通称大文字寺とも呼ばれ、毎年8月16日の大文字の送り火には、精霊送りが行われる。」 京都市
八神社(はちじんじゃ)
一 御祭神◯本殿 皇居 賢所に祀られる宮中三殿の内、八神殿と同神。『古事記』『日本書紀』冒頭に見える神々。 高御産日神(タカミムスビノカミ) 天御中主神と並ぶ造化三神 *天地が初めて出現した時、天之御中主神についで、神産巣日神とともに現われた造化三神の一つ。 神御産日神(カミムスビノカミ) 宇宙生成化育の神 生産日神(イクムスビノカミ) 生産の神 足産日神(タルムスビノカミ) 農饒の神 玉積産日神(タマツメムスビノカミ) 物を生み出す神 大宮売神(オオミヤメノカミ) 和平をはかる神 御食津神(ミケツカミ) 食物の神 事代主神(コトシロヌシノカミ) 国土安穏 皇室守護の神〇樹下稲荷社 食稲魂神(ウガノミタマノカミ) 商売繁昌の神。食物の神〇雨社 髙龗神(タカオカミノカミ) 水の神二、ご由緒 本社の御鎮座は、平安時代初め大同年間(西暦八〇〇~八〇七)と伝えられ、平成十九年目出度くご鎮座千二百年を迎えられました。ただ幕末嘉永六年(一八五八)の浄土寺村一村全焼により古文書等も焼亡し、くわしい歴史は明らかではありません。ただ『諸社根元記』には 延喜五年(九〇五)十二月二十六日宣下、山城国愛宕郡如意峰の神祇斎場所に、二千百三十二座の神体を鎮め安じ奉る。 と見え、後の文章には、 鎮魂の八神殿、亦神祇宮に在り。則ち今の二条所司庁の西なり。茲れ自り東山如意嶽移り、御土御門院天皇の文明十六年(一四八四)吉田神楽岡に移しまつる。とあります。思考するに、古くより浄土寺地域一帯の産土神として祀られていた神社の社地へ、延喜五年神祇宮で奉斎されていた神々が祀られる事となった。また相殿の樹下社も、比叡また日吉大社が勢力を大きく伸ばした平安時代後期から鎌倉時代にかけてのいずれかの時期に祀られたようである。すくなくとも室町時代足利義政が東山殿を建てた頃には八神社として本殿二棟、東に八神、西に樹下社が祀られていた事が慈照寺所蔵の絵図によって知られる。その後文明十六年に八神殿が当所より吉田神楽岡(現在の吉田神社大元宮)に移された後も、平安時代より八神殿を祭祀してきた場所として引き続き宮中八神殿の神々を斎ってきたと思われる。現在では浄土寺一帯や慈照寺の鎮守として広く崇敬を集めている。三、御神徳 当社の御祭神は、諸々の願い事の成就のみならず、方除け、厄除け、災難除け、の神として霊験あらたかで、遠隔地よりの参拝も多く、広く崇敬を集めております。案内版より
樹下稲荷大明神 雨社
樹下稲荷大明神雨社
樹下稲荷社 食稲魂神(ウガノミタマノカミ) 商売繁昌の神。食物の神
雨社 髙龗神(タカオカミノカミ) 水の神
拝殿
大文字山登山口