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北野天満宮② 楼門 絵馬所 摂社末社

北野天満宮② 楼門 絵馬所 周辺 摂社末社

楼門

楼門の上部に掛けられた額には、文道大祖 風月本主(ぶんどうのたいそ ふうげつのほんしゅ)の文言が刻まれています。平安時代中期の学者・慶滋 保胤(よししげ の やすたね)、大江匡衡(おおえのまさひら)が菅原道真公を讃えた言葉です。年末に奉掲するジャンボ絵馬も、京の師走の風物詩として知られています。
*文道大祖: 学問・文学の 風月本主: 漢詩・和歌に長じた人

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菅原道真公(菅公)を祀る全国約一万二千社に及ぶ天満宮・天神社の総本社

和魂漢才」の精神を提唱された菅公は、後に「文道大根 風月本主」と称えられ、学業成就や厄除、技芸上達の神として信仰を集めている。和魂漢才 日本固有の精神と中国伝来の学問。

村上天皇天暦元年(九四七)、平安京の北西(天門)に創祀され、天徳三年(九五九)藤原師輔もろすけ卿が御社殿を造営、以来朝野ちょうのの崇敬篤く、殊に一條天皇には「北野天満大自在天神」の神号を賜り、格別の尊崇を受け、「天神さま」として全国に伝播した。朝野:朝廷と民間

また、天正年間には豊臣秀吉公が境内一帯の北野松原で北野大茶湯きたのおおちゃのゆを催し、慶長年間には出雲阿国が京において初めてややこ踊り(歌舞伎踊り)を演じるなど、日本文化発信の中心地として強く意識されてきた。

現在の御本殿(国宝)は、豊臣秀頼公が、慶長十二年(一六〇七)に造営されたもので八棟造と称し、権現造の原型となった桃山建築の代表的遺構である。また、中門は三光門と呼ばれ、後西天皇御宸筆の勅額「天満宮」を掲げている。

宝物としては、紙本著色北野天神縁起絵巻・承久本(国宝)をはじめ、貴重な文化財を多数蔵している。毎年二十五日の御縁日(天神さんの日)には多くの参拝者で賑う。

京都市

北野の花手水

楼門をくぐって右側(東側)に手水舎があります。コロナウイルスの拡大により柄杓を用いての手水が撤廃。代わりに竹筒から水が注がれ、手水鉢には花やかぼちゃなどが並べられています。

絵馬所

「絵馬所」とは文字通り、大きな絵馬が奉納されている建物です。現在の絵馬所は元禄12年(1699)に建てられ、規模、歴史は現存する絵馬所のなかでも随一と言われています。

宗像社(むなかたしゃ)

御祭神 田心媛神たごうひめのかみ湍津姫たぎつひめのかみ神・市杵島姫いちきしまひめの
ご祭神は福岡県の北西部、玄界灘げんかいなだに臨む陸地(現在の宗像むなかたぐん郡玄海町)と、 その沖合いにある二つの島にご鎮座になられた「宗像の三女神」とよばれる神々である。
太古よりこの海域は、大陸との交流において重要な道筋にあたり、海上交通の要所に鎮まる宗像の三女神は、 道を掌る最高神として手篤く祭られてきた。当社は、昔この社殿の西に池があり、水底にご鎮座になっていたご神体をこの場所に遷したものと伝えられている。

大杉社

当宮随一の御神木である。室町時代に作成された『社頭古絵図』には、すでに樹齢数百年らしき二又の杉の巨木が描かれており、これより推定しても一千年以上の時を経たものとと思われる。神仏習合時代の室町期には、『聖歓喜天しょうかんぎてん』の宿る所願成就の神木として一層の信仰を集めた。のち落雷によって惜しくも二又はくじけ、根幹を残すのみとなったが、その威容は多くの崇敬者によって守り継がれ、いささかも衰えことはない。聖天様(通称)のお姿は、頭がゾウで体は人間。

稲荷神社

御祭神 倉稲魂神うがのみたまのかみ猿田彦命さるたひこのみこと大宮女命おおみやめのみこと
祭神は「稲生いねなりの神」と称えられる通り、五穀ごこく(米・麦・粟・豆・ひえ豊穣ほうじょうをつかさどり、また商売繁盛の守護神として代表的な神である。当社はまた、昔この付近に火災があった際、この神社の手前で火の手がぴたりと止まったという伝えによって「火除け稲荷」とも呼ばれ、信仰を集めている。

猿田彦社(さるたひこしゃ)

御祭神 猿田彦神 神徳 交通安全
(相殿) 大宮売神おおみやめのかみ 神徳 芸能・舞踏上達
猿田彦神は、日本の国をよく治めるようにという天照大神あまてらすおおかみの命令を受けた瓊々杵尊ににぎのみことが、高天原たかあまはら(天上にある神々の世界)より地上に降り立たれる際、先頭に立って道案内をした神であり、この神話をもって交通安全の神として崇められてきた。身の丈二メートルをこえる巨体と長い鼻を持ったこの神は、昔から「天狗さま」として親しまれている。大宮売神は、天鈿女命あめのうずめのみことの別名。弟神 素戔嗚命すさのお‐の‐みことの乱暴な振る舞いを嘆き悲しまれ、天岩屋戸にお隠れになった天照大神を、軽妙な踊りで慰めた女神であり、芸能上達の守護神として崇敬される。愛嬌のある顔立ちをされた神で、我国に伝わる「おかめ」というユーモラスな女性の顔は、この女神をモデルにしたものである。

素戔嗚命:日本神話の神。伊奘諾尊(いざなぎのみこと)・伊奘冉尊(いざなみのみこと)の子。天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟。多くの乱暴を行ったため、天照大神が怒って天の岩屋にこもり、高天原から追放された。出雲に降り、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、奇稲田姫(くしなだひめ)を救い、大蛇の尾から得た天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を天照大神に献じた。

一ノ保神社(いちのほじんじゃ)奇御魂神社(くしみたま じんじゃ)

一ノ保神社(いちのほじんじゃ): 祭神 菅原道真公  神徳 学徳成就
この神社は、道真公が太宰府に残された手作りの木像を持ち帰り、西の京(京都市中京区南西部 天満宮の氏子区域)北町に建てた小さな社に納め、これを『安楽寺天満宮』と称して祭られていたもので、明治になって当地へ遷された。
安楽寺』とは、菅公の墓所になった寺で、太宰府天満宮の起源とされるが、菅公のご遺徳を偲ぶ人々によって、この寺に因んだ神社名が付けられていたと思われる。

奇御魂神社(くしみたま じんじゃ):祭神 道真公の奇御魂  神徳 文芸・歌道上達の神
奇御魂』とは さまざまな不思議や奇跡をよびおこす特別な力を持った神霊のことで、鎌倉時代の中頃 菅公のご神霊が、東福寺の開祖圓爾国師(えんにこくし)の前に現れ『私はこのたび宋に飛び、一日にして禅の奥義(おうぎ)を修得した』と告げられた。その時 菅公は唐衣(からころも)をまとい手に一輪の梅の花を持たれていたため、以来このお姿を『渡唐(ととう)(宋)天神(てんじん)』と称え祭るようになった。
また昔 天満宮の境内でさかんにあった法楽連歌(ほうらくれんが)(天神さまをなぐさめるため
人々が集い和歌を詠(よ)みあう会)は、この『渡唐天神』の肖像(みすがた)の前で行われたことにより、菅公は歌道・文芸上達の守護神として崇敬されるようになる。


野見宿祢神社 豊国神社 一夜松神社

野見宿祢神社(のみのすくねじんじゃ):祭神:野見宿祢命(のみのすくねのみこと)
神徳:スポーツ上達
野見宿祢命は道真公の十九代前の先祖・文武両道に優れた勇士で、垂仁すいにん天皇の午前試合において、最強力士を豪語する当麻蹶早(たいまの けはや)を打ち破り相撲の祖と仰がれた。大相撲京都場所の際は、力士の参拝も多い。のち宿祢すくねは朝廷に仕え、古いしきたりを改めた功績により土師(はじ)の姓を賜った。

豊国神社(とよくに じんじゃ):祭神:豊臣秀吉公 神徳:開運・立身出世の神
豊臣秀吉公は天下統一を達成し豊太閤と称えられる安土桃山時代の武将である。秀吉公は北野天満宮への崇敬がことのほか篤(あつ)く、天正15年(1587)には当宮境内地において北野大茶湯を催され、また天満宮本殿(国宝)の造営を遺命とされるなど数々の歴史的偉業を残された。

一夜松神社(いちやまつじんじゃ) 祭神:一夜千松の霊 神徳:延命長寿の神
一夜千松の霊とは、北野天満宮創建に先立ち、「私の魂を祭るべき地には一夜にして千本の松を生じさせる」という道真公のお告げによって、この一帯に生えた松に宿る神霊をいう。境内に多い松の樹々は、この一夜千松の名残りとされる。

紅梅殿 西の広場

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