嵯峨釈迦堂 清凉寺
仁王門
清凉寺 (嵯峨釈迦堂)
五台山と号する浄土宗の古刹で、「嵯峨釈迦堂」の名で知られている。
この地には、一説では『源氏物語』の主人公の光源氏のモデルであったといわれる源融(みなもとのとおる)の山荘、棲霞観(せいかかん)があり、融の没後、棲霞寺(せいかじ)としたのが当寺の始まりである。
天慶8年(945)に等身大の釈迦像が安置され、これが通称の由来ともいわれている。
その後、インド、中国、日本の三国伝来となる釈迦如来立像を持って宋(中国)から帰国した奝然上人(ちょうねんしょうにん)が、その像を安置するため、愛宕山を中国の五台山に見立てた「大清涼寺」の建立を計画したが、志なかばで没したため、弟子の盛算(じょうさん)が清涼寺を建立して像を安置した。
昭和28年(1953)、背中に蓋が発見され、中に内臓を模した絹製の五臓六腑などが納められていたことから、生身のお釈迦様とも呼ばれている。
本堂は、元禄14年(1701)に徳川5代将軍綱吉、その母桂昌院らの発起により再建されたもので、本尊の釈迦如来立像(国宝)を安置しており、霊宝館には、阿弥陀三尊像(国宝)、文殊菩薩騎獅像(重要文化財)等、多数の文化財が祀られている。
このほか、境内には、奝然上人、源融、嵯峨天皇、檀林皇后の墓などがある。京都市
法然上人像 仁王門 多宝塔
法然: 平安時代後期-鎌倉時代の浄土宗の開祖
清凉寺案内図
愛宕権現社
一切経蔵(別名「輪蔵」)
お釈迦さまが、お説きになった一切の法(経典)が収められている経蔵です。 この経蔵には唐紙製の明板本五千四百八巻の大部が収められています。 法輪を一回転すれば一切経を読んだありがたい功徳が得られます。明るく正しい人生道を歩んで下さい。
輪蔵 正面 善慧大士座像、|両脇 普浄、普賢像 |四隅 四天王像
阿弥陀堂
棲霞観跡(清凉寺)
嵯峨天皇皇子で皇族賜姓の源融(822~895)が、9世紀後半に嵯峨に営んだ山荘。
融は晩年に写経や造仏に着手したが業なかばで他界したので、子供たちが完成させて棲(栖)霞寺とした。永延元年(987)、奝然(ちょうねん)は宗より請来した釈迦如来像ほかを棲霞寺境内に安置し、宗の五台山清凉寺に倣った寺院の建立を目ざしたが果たせず、遺志を継いだ弟子によって棲霞寺の一部に釈迦堂として発足したのが清凉寺である。かつて棲霞寺にあった阿弥陀三尊像(国宝)は現在、清凉寺の霊宝館に安置されている。
「源氏物語」「松風」に、光源氏が造営した「嵯峨の御堂」は大覚寺の南に所在したとあり、棲霞観の場所と一致する。河原院が六条院のモデルということと共に、源融が光源氏のモデルとされるゆえんである。
本堂
秀頼公首塚
あでやかに 太夫となりて 我死なむ
六十路過ぎにし 霧はかなくも
名優と謳われた初代中村雁治郎の末娘に生まれた女優中村芳子が、廓文化を今に残す京の伝統の中に生きるべく、昭和55年11月島原・夕霧太夫を襲名して7年間太夫としてあでやかに京のまちを舞われました。惜しくも昭和62年12月3日お亡くなりになりました。ここに、夕霧太夫を偲んでこの歌碑を建立いたしました。
*遊廓(ゆうかく)は、公許の遊女屋を集め、周囲を塀や堀などで囲った区画のこと。井筒八ッ橋本舗 津田佐兵衞
薬師寺 生の六道
生の六道 石碑(小野篁は昼は宮中に仕え、夜は閻魔庁に通ったといわれ、東の鳥辺野入口の六道珍皇寺の井戸から冥界に入り、西の化野(あだしの)入口にある六道福生寺(現薬師寺)の井戸からこの世に戻ったという。清凉寺の西門にある薬師寺がその寺で、横に石碑が建てられている。
鐘楼
謡曲「百萬」と狂言堂
謡曲「百萬」は、大和国吉野の者が奈良西大寺辺で拾った小童を連れて嵯峨の大念仏に参詣すると、群集の中にわが子に逢いたいと狂い舞っている一人の女がいた。これを見た小童が「あの狂女こそ母である」という。*謡曲:能の詞章のこと。 演劇における脚本に相当する。
その郷里を尋ねると「私は奈良の都の百萬という者で、夫には死別し、一人子にも生別したので、心が乱れたのです」と答え、尚も再会を祈り舞い狂う。
心根に打たれて小童を引き合わせると狂女は喜び狂気もおさまって、仏の功徳を感謝しながら母子共に奈良に帰って行く、という物語の曲である。
狂言堂は清涼寺釈迦堂の念仏狂言のなされる所である。融通念仏の遺風とされる念仏狂言は弘安2年円覚上人の創始により、毎年3月15日涅槃会のとき、4月(日は年によって変わる)に行われる無言劇である
西門
西門
アクセス 清凉寺 参拝者用駐車場
嵯峨豆腐森嘉 甘春堂嵯峨店
嵯峨豆腐 森嘉 嵯峨豆腐 森嘉 甘春堂 嵯峨店