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嵐山公園 亀山地区

嵐山公園 亀山地区

展望台

竹林の小径 大河内山荘を右に進み嵐山公園 亀山地区に入り、展望台まで上がる、上り坂ですが5分ぐらいで到着。美しい渓谷の景色がありました。

小倉百人一首文芸苑 拾遺集と百人一首

小倉百人一首は、古今集から続後撰集に至る10種の歌集から撰歌されています。ここには、三番目の勅撰集となる拾遺集から選ばれた十一首の歌を紹介しています。…..

津崎村岡局(つざきむらおかつぼね)の銅像

津崎村岡局の銅像
この銅像は、幕末の勤王家、津崎村岡局の像で、昭和3年(1929)、原型作者中牟田なかむた三次郎、設計者阪谷さかたに良之進りょうのしんの製作によって建てられた。*幕府を助ける佐幕派に対して、京都朝廷のために働いた一派
村岡局、名は矩子(のりこ)、天明6年(1786)、嵯峨に生まれ、父は津崎左京、近衛このえ忠煕ただひろに仕え、村岡局と名乗った。嘉永6年(1853)ペリーの来航とともに幕末の政局は俄かに慌ただしくなり、近衛卿は尊王攘夷派の公家として頭角を現した。局は、僧月照や水戸の鵜飼吉左衛門うがいきちざえもんらと親交を持ち、志士相互及び志士と公家との連絡に当たり、特に、近衛卿や西郷隆盛らの運動を助け活躍した。このため、安政5年(1858)井伊直弼による安政の大獄が起こると、局も捕らえられて江戸に送られ、永の慎に処せられた。その後、近衛家を辞して北嵯峨の直指庵じきしあんに隠居。

付近の子女の教育に尽くした。村岡局は維新の女傑といわれているが、晩年は嵯峨庶民の慈母でもあった。明治6年(1873)88歳で没した。

京都市

角倉了以翁 銅像

角倉了以翁の業績

翁(本名与七)の生誕は天文23年(西暦1554年)徳川家康は慶長8年(1603年)に幕府を開き 続いて駿府城(静岡)に政経文化の中枢審議機関(現代のシンクタンク)を設置して京都から翁を迎えた 翁は息子の素庵(与一)の協力を得て12月には「安南国貿易」「御朱印船貿易」の第一船を出航 9年の6月に帰国以来13年まで角倉船は年一回の出航を続けたが七度目に烈し、風波のため難破し翁は事業を素庵に譲り隠退以後その蓄財を基にして河川の開削事業(現在の治水事業)を始めた。
 一・慶長11年(1606年)「保津川大堰川の開削」完成
 一・慶長12年(1607年)「富士川疏通」完成
 一・慶長13年(1608年)「天龍川開削」は未完成
 一・「方広寺大仏殿再建」のため鴨川の疏通実施
 一・慶長16年(1611年)「高瀬川の開削」完成
 一・慶長19年(1614年)60才にて没す
 了以翁の偉業を讃えた京都の町衆が據金きょ‐きんし第二次大戦中取り壊された銅像を復元した。
     昭和63年5月28日  角倉了以翁像碑保存会

角倉了以翁 銅像 駒札

徳川幕府のシンクタンク(重要諮問会議)の一員として若くより招かれ、御朱印船にて安南(今の東南アジア)方面に渡航成功7回、巨額の富を得、これを治水事業に充当する。最初に1606年保津川、大堰川開削、次いで駿河国(静岡県)1614年京都市内で高瀬川開削に成功し治水の先覚者となる。
京都三大銅像の筆頭である。

後拾遺集と百人一首

周恩来 記念詩碑

周恩来総理は1917年に来日され、1919年までの青年時代の一時期を日本で過され、京都にも滞在された。京都滞在中、周恩来総理は新しい思想を知り、暗い世界の中で一点の光のような感動を受け、1919年4月5日、これを雨中嵐山という詩に表わした。
 1978年8月、日中平和友好条約が調印され、この条約調印を永遠に記念し、子々孫々にわたる友好を願う心を表わしたいという声が巻き起こった。そこで、京都にゆかりの深い、日中両国友好のために尽された周恩来総理の詩碑を建立しようという運びに至った。

http://www.japitkyoto.jp/shu-onrai/

大堰川(おおいがわ)桂川(かつらがわ)

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