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南大門 由縁 歴史

南大門の歴史 金剛力士像

東大寺 南大門なんだいもん

鎌倉時代(1185–1333)に東大寺を 復興した重源上人ちょうげんしょうにんが再建(1199)。入宋経験のある重源によってもたらされたこの建築様式は大仏(だいぶつ)(よう)(天竺(てんじく)(よう))と呼ばれました。

重層門(二重門)1最近では重層門のうち,下層に屋根をもたないものを〈楼門〉と呼び,上下層に屋根のある門を〈二重門〉と呼び分ける。で高さ25m、入母屋いりもや造り、五間三戸ごけんさんこ2正面の柱間(はしらま)の数と,そこに開かれる戸口の数の大仏殿にふさわしいわが国最大の山門である。

平重衡による南都(奈良)焼討ち

鎌倉時代の再興:

奈良時代に創建された東大寺は、1180年重衡しげひらによる南都(奈良)焼討ちで大仏殿をはじめ多くの堂宇どううが焼失し、南大門も失われますが、鎌倉時代初期に活躍した重源(1121-1206)が東大寺復興の大勧進に任命され、南大門も再建される。

重源上人(ちょうげんしょうにん): 

京都・醍醐寺で真言密教を学んだ僧で、40代から中国に3度渡って南宋の知識や技術を吸収、帰国後は各地の社寺の建立・修復の資金を集める勧進僧として活動しました。その経験を買われて、東大寺復興の大勧進識(しき)に任命されます。大仏の再鋳、大仏殿や南大門の再建など、86歳で没するまで精力的に活動しました。

また鎌倉期の再興では、慶派の仏師も再興に加わり尽力する。南大門の両脇に立つ二体の8mの高さを超す巨像、金剛力士像は仏師、運慶率いる慶派の仏師集団によって大仏(盧舎那仏)の守護神として作られる。建仁3年(1203)運慶と快慶が弟子を引き連れてわすか日69日で完成させたという。

門の北側左右には宋の石工、伊行末(いのゆきすえ)が刻んだ石獅子像を安置。獅子には悪魔を圧する霊力があると信じられたために、門や扉の守護物とする。

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