北野天満宮 鳥居 参道
一の鳥居
影向松(ようごうのまつ)
影向松(ようごうのまつ)
表参道の大鳥居(一ノ鳥居)をくぐってすぐ右手に、石の玉垣で囲まれた一本の松が立っています。影向松と名付けられたこの松は、当宮の創建からこの地にあると伝わる御神木。立冬から立春前日までに初雪が降ると天神さまが降臨され、雪見を愛でながら詩を詠まれるという伝説があり、現在でも初雪が降った日には、硯と筆と墨をお供えして「初雪祭」の神事を行っています。
*影向(ようごう):神仏が仮の姿をとって現れること。神仏の来臨。
露の五郎兵衛記念碑
露の五郎兵衛記念碑
人艸(草)や 来た野(北野)の 露乃 五郎兵衛
1681~84年の頃、露の五郎兵衛という人が此処の神社境内で自作の笑い話をやり始め、それが落語になったという。
北野東向観音寺 本堂 礼堂
寺伝によると延暦25年(806)に桓武天皇の勅願にて建立された朝日寺を前身とする。
京都市
天暦元年(947)に朝日寺の僧、最鎮らが天満宮を建立した後、応和元年(961)筑紫の観世音寺より菅原道真公直作の十一面観世音菩薩を請来し安置されている。
応長元年(1311)、無人如導宗師が十一面観音を本尊として観音寺とした。古来より天満宮御本地仏・北野神宮寺または、北野奥之院と称し、本堂が東を向くことから「東向観音」と称される。本尊は秘仏で二十五年に一度の菅公御年祭の時に御開帳される。
観音寺は元は北野社の神宮寺であったが、十四世紀中頃に無人如導が中興して律宗となり、その後十七世紀になって豊臣氏が北野社を復興した際に当寺も整備されたと伝える。現在は真言宗泉涌寺派に属している。
当寺は本堂と礼堂(らいどう)は、造合(つくりあい)でつながれた複合形式の建物である。十七世紀前期に本堂が建てられ、元禄七年(一六九四)に礼堂と造合が本堂正面に増築された。本堂は、丸柱上の組物を出組とする方三間の本格的な構造形式の仏堂である。一方参拝空間である礼堂は、角柱に舟肘木(ふなひじき)をのせる簡な形式になっており、仏の空間である本堂とは明確に建築手法を変えている。また礼堂正面の向拝(こうはい)は柱上に大斗(だいと)を据えず、絵様肘木(えようひじき)を柱頂部に落とし込む珍しい手法をとっている。
観音寺本堂・礼堂の駒札
当寺の本堂・礼堂はそれぞれ十七世紀前期および元禄期の建築様式をよくとどめている質の高い建物である。
末社 伴氏社(ともうじしゃ)
御祭神 菅原道真公の母君
社頭駒札
御神徳 子どもの成長と学業成就を守護
例祭日 1月14日
菅原道真公の母君が大伴氏の出身であることより伴氏社と称するかつては、石造りの五輪塔が置かれていたが明治維新の神仏分離政策により、当社南隣の東向観音寺に移された。
暖かい愛情と厳しいまなざしをもって菅公を優秀な青年官吏に育て上げられた母君を祀るこの神社は、わが子の健やかな成長と大成を願うお母様方の篤い信仰を集めている。
神前の石鳥居は鎌倉時代の作で、国の重要美術品に指定されており、台座に刻まれた珍しい蓮弁により有名である。
*大伴氏(おおともうじ)、のちに伴氏(ともうじ、ばんし)は、日本の氏族のひとつ。
北野大茶湯の址 さざれ石
北野大茶湯の址 さざれ石
北野大茶湯の址(きたの-おおちゃの-ゆ-の-あと): 1587年10月1日,九州平定と聚楽第造営を記念して豊臣秀吉主催の大茶会が北野天満宮境内で行われた。千利休など堺の茶人をはじめ,全国から貴賤を問わず数寄者を集めたという。
さざれ石: 国歌「君が代」に詠まれる「さざれ岩」
「君が代は千代(ちよ)に八千代(やちよ)にさざれ石の巌(いはほ)となりて苔のむすまで」
あなたの命が、小さな石が長い年月をかけて大きな石となり、その石に苔がつくまで、永く永く続きますように。
撫で牛
菅原道真が、丑歳の生まれで、牛は天神様のお使いと言われることが由来。
子供連れや、立派な角で黒光りしているものなど、多様な撫で牛がたくさんあります。自分の身体の悪い箇所を撫でた後、牛の像の同じ箇所をなでると、自分の悪い箇所が治るとか、牛の像の頭を撫でると頭がよくなるといわれ、受験生をはじめ、たくさんの人が牛をなでていきます。
なぜ牛は横たわっているかというと、大宰府で生涯を閉じた菅原道真の御遺骸を運んでいる途中、車を引く牛が座り込んで動かなくなったため、その付近にあった寺院「安楽寺」(現在の大宰府天満宮)に埋葬したという故事から。
アクセス
参拝者専用 駐車場
駐車場は無料です。 北野天満宮前交差点を北に入りすぐ駐車場入り口があります。