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下鴨神社③ 糺の森 第一蹴の地

糺の森 第一蹴の地 摂社末社

糺の森と瀬見の小川

糺の森(ただすのもり)と瀬見の小川(せみのおがわ)

糺の森は、鴨川と高野川とが合流する地にあるニレ科の樹木を中心とした森で、山城国一宮賀茂御祖神社(やましろのくにいちのみやかもみおやじんじゃ)(下鴨神社)が鎮座しています。平安時代から鎌倉時代の賀茂御祖神社社頭(しゃとう)の景観を描いた「鴨社古圖(かもしゃこず)」によると、瀬見の小川は馬場の西側を流れています。さる平成二年から四年(1990~1992)にかけての糺の森発掘調査の結果、流路跡(りゅうろあと)が絵図のとおり検出されました。また、他の場所で検出された古い流路からは、祭祀(さいし)で使われる土器が出土しています。元禄七年(1964)四月十八日の賀茂祭(かもさい)から行粧(ぎょうしょう)が再興され、同時に途絶していた朝廷から奉納される走馬十列(そうめとおつら)の儀(ぎ)も復興をみ、そのとおり馬場整備により鴨川を源流とする現在の流路となりました。「風土記(ふどき)」山城国逸文(やましろのくにいつぶん)には、御祭神賀茂建角身命(かもたけつぬのみこと)が「瀬見の小川」と名づけられたとの縁起を伝えています。また、元久二年(1204)三月撰進(せんしん)の「新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)」に採録さえた当神社祀官係累鴨長明(しかんけいるいかものちょうめい)の歌「石川や せみの小河(おがわ)の 清ければ 月もながれを 尋ねてぞすむ」で広く知られるようになりました。

末社 河崎社(こうさきのやしろ)

末社 河崎社
御祭神  神魂命 賀茂建角身命 玉依彦命 大伊乃伎命 大屋奈世命 馬伎命
例祭 七月七日.

『こうさきのやしろ』と、読む。元は、京都大学の辺りから 田中神社一帯にあった鴨氏の集落の社であった。この集落は、 鴨長明の一族の鴨村であったことがよく知られている。社の元の地は、現在の知恩寺付近で今なお境内に鴨神社が奉斎されている。賀茂御祖神社領は、承和十一年(844)十二月二十日 付、大政官符により制定された。河崎社は、山城国粟田無の内 であった。元慶四年(880)、上下の郷に分けられたと『三代実録』にある。その下粟田郷河崎里に祀られていたところか ら河崎社と呼ばれた。
御祭神は、資茂建角身命系譜の始祖神である。室町時代の『親長卿記』文明六年(1474)八月一日くだりに、先年の応仁・文明の乱によって略奪、放火にあった河崎の集落を守るために田中の構と称する防護壁を築いたとあり、その田中の構は、『実隆公記』文亀三年(1503) 月二十四日のくだりに、また乱により集落が襲われ兵火にみまわれたこと。その後も享禄三年(1530)十二月二十九日(『 二水記』)に襲撃をうけ集落がことごとく焼き討ちにあい壊滅状態となったと記されている。

天文五年(1536)七月二十二 日(『鹿苑日録』)、さらにまた幻の兵火にあい、田中の構も河崎社も壊滅したとある。たび重なる乱の兵火によって崩壊した集落は、本宮紀の森西方のやはり応仁・文明の乱の兵火で焼亡し た鴨社神姫御所跡へ氏人の村ごと移住し、河崎社も天明五年(1785)、御所跡へ遷御された。ところが、大正十年(1921)九月、京都市都市計画法によって、河崎社境内が下鴨本通となり、鴨社神宮寺跡の賀茂商院歴代斎王神霊社へ合祀された。昭和三十三年、戦後の混乱期の遷宮事業により社殿造替のため、今日まで撤去されたままとなっていた。今回、平成二十七年・第三十四回・式年遷宮事業の一環としてようやく、 古儀により再興した。

摂社 二十二所社

特別保護建造物 摂社 二十二所社
御祭神 鴨氏二十二譜始祖神 例祭 四月十四日

明治十年(一八七七)三月二十一日、摂社七社の内第六社として制定されたお社です。
社殿は、第二十三回・正徳元年(一七.一)、式年遷宮により造替され、末社雑太社相殿
なりました。相殿(あいどの):主祭神に加えて他の神を合祀・配祀することを言い、それぞれの祭神を祀るための二殿をあわせて作った社殿を指します。
明治四十三年四月八日、特異な様式の社殿により、特別保護建造物に指定されていました。元々、この旧鴨社神宮寺域内に祀られていましたが、創始の年代は不詳です。社名が一時・日吉社と呼ばれていたのは、明和七年(一七七〇)、当時の禰宜・俊春とその子俊永禰宜が一一代にわたって鴨伝承や歴史的資戮記録類を集成し、寛政十一年(一七九九)に完成させた『鴨縣纂書』(烏邑縣纂書、との名称もある)によると、「山王ヲ遙拝ノ所也。二十一庚申伝アリ。」と記しているとおり、滋賀県の日吉大社に当神社本宮御祭神・玉依媛命と同神が祀られており、このお社を遙拝所としていた時期があり、そのように呼ばれていたようです。
「二十一庚申」とは、鴨氏の始祖神のことです。二十二所」をわざわざ「二十一庚申」としたのは、氏祖神「雑太社さわたしゃ」を相殿にお祀りしたからです。御祭神は、御本宮御祭神の賀茂建角身命系譜を始祖とする氏とその祖神魂命、さらに、開化天皇の皇子彦坐命の系譜と神武天皇、崇神天皇より賜った姓の氏祖の神々をお祀りしています。
戦後、混乱期の式年遷宮事業にあって、遅延した社殿再興がようやく今期、第三十四回式年遷宮事業によって造替できました。この機に攝社・二十二所社と末社・雑太社を元に復して別々に伝統の様式によってご造営しました。また、このお社は、二十一年ごとのご遷宮にあわせてご開帳するという珍しいお社です。

雑太社 第一蹴の地

末社 雑太社(さわたしゃ
ご祭神 神魂命(かんたまのみこと) 賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)

元は鴨社神舘御所内の雑太という字地に御所の鎮祭社として祀られていました。奈良・平安時代は、この社から各地へ分霊されていたことが記録にみえます。その一所に「和名類聚抄わみょうるいじゅしょう』養老五年(721)四月に、佐渡國さどのくに 雑太郡さわたのこおり 加茂の加茂神社とあり、他にも多々みられます。 応仁・文明の乱の兵火により、文明2年6月14日(1470年)鴨社神舘御所とともに焼失したのでこの地にご動座になりました。*平安時代中期に作られた辞書

明治10年(1877年)3月21日、官幣大社 賀茂御姐神社の末社と制定され、社殿は明治43年(1910年)4月8日、旧法により、特別保護建造物に指定されました。

同じ年の九月十日、社前の馬場にて、御祭神のかんたまのみことは、「球」に通じるとして、糺の森で初のラグビの練習が第三高等学校と慶義塾大学生のあいだでおこなわれました。それが契機となり日本ラグビ界の歴史が始まり、今日まで数々の名勝負が展開されてきました。昭和四十四年(1969年)十月五日、その歴史を後世に伝えるため「第一蹴の地」の聖地として記念碑が建立されました。

末社 賀茂斎院御歴代斎王神霊社

末社 賀茂斎院御歴代斎王神霊社
(かもの さいいんの ごれきだい の いつきのみや の みたま の おやしろ)
御祭神 有智子内親王ほか三十五代斎王御神霊
例祭 七月四日

失然の煮王さまの御神のお社です。「賀茂斎院御歴代斎王神霊社かものさいいんのごれきだいのいつきのみやのみたまのおやしろ」と呼んでいます。 「明治二十七年(一八九四)、賀茂御祖神社の御事を調査し編修した「賀茂御祖神社 御事歴調記」には、「河崎社・斎院鎮守御社合社、御祭神・大伊伎命おほいぎのみこと (ひろく猿田彦大神として信仰されています。)と賀茂斎院御歴代斎王神霊社の二社が合わせえられた神社」と説明しています。また同書には「勧進・嵯峨天皇御代。在所、本社西南二町半」とあります。鴨社神舘御所の旧跡に祀られていたお社と河崎社こうさきのやしろが合祀され鴨社神宮寺跡に祀られていたことを記録しています。
勧進されたのは、「嵯峨天皇御代」となっています。賀茂斎院の制が設けられたのは、 弘仁元年(八一〇)四月、(「一代要記」とあり、初代の斎王さまは、嵯峨天皇の第八皇子 有智子うちこ内親王が弘仁元年、四才のときにト定され、天長八年(八三一)十二月、21才で 退下になり、承和十四年(八四七) 十月二十六日 四十一才にて墓去されました。以来、 鎌倉時代の後鳥羽天皇の皇女・禮子いやこ内親王が建歴二年(一二一二)九月四日,退下されるまで 三十五代、約四百年にわたって代々皇女が斎王宮として御在位になりました。


「百錬抄」の仁平元年(1151)七月四日のくだりに「一院供養河東御所内中嶋御塔」と あります。「河東」とは、その当時の宮中からみて、鴨川の東の御所、すなわち「社頭 鴨社頭賀茂斎院御所」のことです。当時、糺の森に所在した御所の池庭に祀られていた歴代斎王の神霊社の「ご供養(お茶)」を鳥羽法皇が祭祀された、ことを記しています。

その後、応仁・文明の乱の兵火によって、鴨社頭賀茂斎院御所は焼亡(文明二年(1470) 六月十四日 「親長卿記」しました。のちにこの旧跡に鴨氏の祖先・河崎社と相殿となり御再興になりました。

長い歴史の間には、紆余曲折がありましたが、今日まで変わらずにお祀りされています。 ただ昭和三十三年・第三十二回式年遷宮が予定され、造替の計画が進められたので 御祭神は、摂社・三井社末社へ返遷御され社殿を撤去されましたが、戦後社会の混乱状況により、 御遷宮が遅延し、今回、第三十四回・平成二十七年式年遷宮事業により御再興いたしました。

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