神楽岡 宗忠神社 吉田山荘
宗忠神社(むねただじんじゃ)
鳥居 狛犬
宗忠神社(むねただじんじゃ)
教派神道「黒住教(くろずみきょう)」の教祖、黒住宗忠(くろずみむねただ)を祀る。
宗忠は、江戸時代の安永九年(一七八〇)、備前国(現在の岡山県)の今村宮の神主の家に生まれ、近所では評判の孝行息子として知られた。次々と両親を病気で失い、自身も重い病にかかったが、文化十一年(一八一四)の冬至の日、朝日を拝しているうちに神の啓示ともいえる霊感を受けてからは、病は癒え、天命を悟り、「黒住教」という新しい神道の一派を創始した。
以後布教を重ね、嘉永三年(一八五六)朝廷から「宗忠大明神(むねただだいみょうじん)」の神号を与えられ、文久二年(一八六二)門人の赤木宗春(あかぎただはる)が当地にこの大明神を勧請し、建立したものである。
幕末の孝明天皇の時には、朝廷の勅願所となり、皇室はもとより二条家、九条家などの公家からも厚い崇敬を受けた。
流造(ながれづくり)の本殿は、明治四十五年(一九一二)に改築されたもので、また拝殿も昭和十二年(一九三七)に改築されたものである。本殿と並ぶ神明宮は、二条家より遷したものといわれ、天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祀る。
例祭は、本殿が四月第四日曜日、神明宮は十一月三日に執り行われる。
神井戸由来:
神社が鎮座して間もない頃、境内に井戸を掘ることになった。この土地は山の上であることから、人夫たちが「掘るのは掘るが、水が出ませんよ」と言うのを、とにかく三十尺(約10m)だけ掘らせました。案の定、水は一滴も出ません。さて、赤木忠春(黒住宗忠の高弟で当社建立の第一の功労者)は、人夫たちに「明日の朝に来て、見てください」と告げ、その夜ご神前に供えた御神水を空井戸に注ぎ、一心に祈りました。翌朝、人夫が小石を井戸に投げ込むと「ドボン」と音がします。水が涌き出ていたのです。それ以来、コンコンと湧き続けましたが、神社に何かご神慮に適わぬことが起こると水が濁ると言われてきました。まさに神楽岡の霊水として珍重されている。
本殿
拝殿の奥に、黒住宗忠(宗忠大明神)を祀る本殿と天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祀る神明宮本殿(しんめいぐうほんでん)があります。
本殿
御祭神: 宗忠大明神
由緒: 黒住左京藤原宗忠と申され安永九年(1780)備前國(岡山市)今村宮の神職の家に生まれられる。 文化十一年(1814)冬至の日、日の神(天照大御神)を拝せられる中に比類なき神人一体の大霊学を得られ爾来生涯を天照大御神の大道宣布にために盡くされた 安政三年宗忠大明神の神号を朝廷から裁許された。
幕末の国事に貢献するところ大であり孝明天皇のご信仰篤く慶応元年四月勅願所を 仰せ出された。
忠春社(ただはるしゃ)
忠春社(ただはるしゃ)
祭神: 赤木忠春神
由緒: 宗忠大明神の高弟で美作(岡山県久米郡)の生まれ。宗忠大明神の明らかにされた天照大御神の大道宣布のため身も心も捧げつくして京都布教に献身した。また幕末の動乱の京師に勤皇の大義を貫き、国事のためにも寄与した。
白山社(しらやましゃ)
白山社(しらやましゃ)
御祭神: 菊理媛尊(くくりひめのみこと:白山比咩大神(しらやまひめのおおかみ))
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
伊弉冉尊(いざなみのみこと)
由緒: 加賀の国(現・石川県)霊峰白山(はくさん)を神体山とする白山比咩大神を祀っており、この土地を鎮護する神として、古くからこの地に鎮座されています。