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下鴨神社② 河合神社

河合神社

糺の森から 河合神社 東の鳥居

河合神社
ご祭神: 玉依姫命たまよりひめのみこと(ご祭神は神武天皇のご母神)例祭日 十一月十五日

ご神徳:神武天皇のご母神として日本建国に貢献されました。内助のご功績は、日本婦人の鑑とも仰がれています。また、すべての女性が一層美しくなりたいという願望と安産・育児・縁むすびなどをかなえてくださる神さまとして広く知られています。

由緒:ご鎮座の年代は詳しくは、わかりませんが、神武天皇の頃と伝えられています。「延喜式」に「鴨河合坐小社宅神社(かものかわあいにますおこそやけのじんじゃ)」とある神社です。「小社宅」(こそべ)」は「日本書紀」に「社戸(こそべ)」とよまれ、それはご本宮の賀茂御祖神社(下鴨神社)のご祭神と同じ神々との意です。延喜元年(901)十二月二十八日の官符に「河合社、是御祖これみおや、別雷両神の苗裔神びょうまいのがみ也。」とあります。天安二年(858)名神大社に列し、寛仁元年(1017)神階二位。元暦二年(1185)正一位に列せられました。明治十年(1887)には、賀茂御祖神社(下鴨神社)第一摂社となりました。
*「鴨河合」とは、賀茂川と高野川が出合うこの場所。「小社宅」は多くの場合に社家の屋敷神を表します。

社殿:ご本宮の式年遷宮にあわせご造営が行われてきました。現在の社殿は、延宝七年度(1699)式年遷宮の古殿舎をご修造したものです。

美人の神さま:ご祭神・玉依姫さまの美麗により、ご自身のお顔を絵馬にたくして奉納し、ご祈願していただきます。

末社、任部社とうべしゃには、サッカーの神さま、八咫烏神やたがらすのかみがおまつりされています。昭和六年、ヤタガラスの神さまが日本サッカー協会のシンボルマークとなりました。

河合神社と鴨長明:「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という文で始まる『方丈記』の作者鴨長明は、当神社の祢宜(神職)の家系でした。年少より和歌にすぐれ、後鳥羽院に見いだされ御和歌所(おうたどころ)の寄人(よりうど)となり、宮廷歌人として活躍したことで知られています。

石川や瀬見の小川の清ければ、月も流れをたずねてぞすむ 長明

下鴨本通り側 西の入り口 鳥居

神門(しんもん)南門

三井社(三塚社)

重要文化財申請社殿
三井社(みついしゃ)別名:三塚社
中社 賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)
西社 伊賀古夜日賣命(いかこやひめのみこと)
東社 玉依媛賣命(たまよりひめのみこと)
古い時代の下賀茂神社は、古代 山城国、愛宕(おたぎ)、葛野郷(かづぬごう)を領有していた。その里には下鴨神社の分霊社がまつられていた。この社は、鴨社蓼倉郷(たてくらごう)の総(祖)社としてまつられていた神社である。摂社三井神社「風土記」山城国逸文(やましろのくにいつぶん)「鴨社」の条の「蓼倉里(たてくらのさと)三身社」とは別の社である

蓼倉(たでくら):「蓼倉郷とは下鴨東北地高野川西なり」とあり、現在下鴨社北東部に接した「左京区下鴨蓼倉町」に合致。

舞殿(まいどの)

拝殿

本殿

鏡絵馬

貴布禰神社

貴布禰神社(きふねじんじゃ)祭神:高龗神(たかおかのかみ)
応保元年(1161)収録の「神殿屋舎等之事」に河合神社の御垣内にまつられていたことが収載されている神社で水の神として有名。

任部社(とうべのやしろ)

任部社(とうべのやしろ)古名:専女社(とうめのやしろ)
御祭神 八咫烏命(やたがらすのみこと)
河合神社創祀のときよりまつられている社である。古名の専女とは、稲女とも書き食物を司る神々がまつられていたことを示している。のちに「百練抄」安元元年(1157)十月二十六日の条にある「小烏社」と合祀された。
昭和六年(1931)御祭神の八咫烏命が、日本の国土を開拓した神の象徴として
日本サッカ-ボ-ル協会のシンボルマ-クとなって以来、サッカ-必勝の守護神として有名である。

六社(むつのやしろ)

六社(むつのやしろ)北方より

 諏訪社(すはしゃ)   御祭神 建御方神(たけみなかたのかみ)
 衢社(みちしゃ)    御祭神 八衢毘古神・八衢比売神(やちまたひめのかみ)
 稲荷社(いなりしゃ)  御祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
 竈神(かまどのかみ) 御祭神 奥津日子神・奥津比売神(おくつひこのかみ・おくつひめのかみ)
 印社(いんしゃ)   御祭神 霊壐(れいじ)
 由木社(ゆうきしゃ) 御祭神 少彦名神(すくなひこなのかみ)

第八回、建仁元年(1201)12月10日 式年遷宮のために描かれたとみられる「鴨社古図」によると、河合神社の御垣内みかきうちにそれぞれ別々にまつられていた。江戸時代の式年遷宮のとき、各社が一棟になった。いずれも、衣食住の守護神である。

鴨長明 方丈庵

鴨 長明
久寿二年(1155)下鴨神社禰宜長継の次男として泉の館(現在の京都大学北方一帯)において生まれた。応保元年(1161)七歳のとき下鴨神社の第六回遷宮が行われ、長明も神職の道につき、従五位下に叙せられた。幼少から学問に秀で特に歌道に優れていた。安元元年(1175)二十一歳、高松女院歌合わせに和歌を献じて注目を集めた。治承四年(1180)六月、二十六歳のときには、福原へ都が遷され、宮中に奉仕する長明も新都に赴いたが、八月 源頼朝の反乱により平家は滅亡し、再び平安京に遷都され帰洛した。
正治二年(1200)四十六歳のとき、後鳥羽院から召されて院の歌会や催しに和歌を献じることになった。翌建仁元年(1201)和歌所の寄人に任ぜられた。また琵琶や笛、琴にもたけた演奏の記録が随所にみえる。しかし、元久元年(1204)五十歳の春、宮中の席を辞して出家し、洛北大原に隠とんする。元久二年三月「新古今和歌集」に
石川や 瀬見の小川の清ければ 月も流れを たずねてやすむ
をはじめ十首が採録された。「瀬見の小川」とは、この河合神社の東を今も流れる川のことである。建暦二年(1212)三月「方丈記」についで「無名抄」を著した。建保四年(1216)閏六月八日、六十二歳で没した。

長明の方丈
鴨長明は、五十歳のとき、すべての公職から身をひき大原に隠とんした。その後、世の無常と人生のはかなさを随筆として著したのが「方丈記」である。大原からほうぼう転々として、承元二年(1208)五十八歳のころ(現在京都市伏見区日野町)に落ち着いた。各地を移動しているあいだに「栖(すみか)」として仕上げたのが、この方丈である。*筆者の体験や読書などから得た知識をもとに、それに対する感想・思索・思想をまとめた散文

移動に便利なようにすべて組立式となっている。広さは一丈(約三メ-トル)四方、約2.73坪、畳、約五畳半程度、間口、奥行きとも一丈四方というところから「方丈」の名がある。さらにもう一つの特徴は、土台上のものが置かれ、その上に柱が立てられていることである。下鴨神社の本殿もまた、土居桁の構造である。この構造は建物の移動ということを念頭に柱が構築されるからである。下鴨神社は式年遷宮により二十一年ごとに社殿が造替される自在な建築様式にヒントを得たものといわれている。

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