スポンサーリンク

金閣寺はいつ、なぜ建てられたのだろう?

室町時代、三代目将軍、足利義満によって京都の北山に建てられたが、なぜ義満は金閣寺を建てたのだろう?

室町むろまち時代、室町幕府
時代は14世紀、1300年代。武家政権だった鎌倉幕府かまくらばくふの時代が終わる。鎌倉時代は武家が権力を持った武家の時代、その鎌倉幕府を倒した後醍醐ごだいご天皇は天皇中心の政治への復活を目指すが、実際は公家くげ中心の政治となる。
* 公家とは? ”日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称”
そこで、武士たちの反感が強まり鎌倉幕府を倒したときの立役者だった武家の足利尊氏あしかがたかうじは後醍醐天皇にそむき、新たに京都に光明天皇を立てる(北朝)、後醍醐天皇は奈良の吉野に逃れ、後醍醐天皇(南朝)を立て、対立することになり南北朝なんぼくちょう時代が始まります。
1338年、足利尊氏は北朝から征夷大将軍せいいだいしょうぐんに任命され、その後、京都の室町に幕府を開くことになり室町幕府が始まります。
  * 征夷大将軍=幕府の長である者。朝廷から任ぜられ、武力を握り、政治の実権を持っている将軍こと。
南北朝時代しかし一代目、尊氏の時代はまだ将軍と言っても、有力守護大名しゅごだいみょうに気を使いながらの政策で、南朝には強敵、楠木正成くすのぎまさしげ新田義貞にった よしさだがおり、全国の武士を統合できるような権力はなかった。
* 守護大名とは? 軍事・警察権だけでなく、経済的にも権力を獲得し、その国の領主のようになった大名のこと。

しかし時代がたつにつれ、三代目義満の時代になると、強敵もなくなり、南朝の勢いがなくなり、有力守護大名もうまく従わせて政策を行えるようになり、武家としては異例の太政大臣だいじょうだいじんも兼務し、公家と武家の両方の頂点に立ち、南北朝の統一も実現させる。
 * 太政大臣とは? 日本の律令制における司法・行政・立法を司る最高国家機関、太政官の長官。朝廷の最高職。
 * 律令制とは? 律は刑罰に関する法律、令はその他の法律(行政など)のことです。法律が整っている国家体制のことです。
南朝も制した義満には権力が集中し、義満の政権基盤は絶頂期で、その権力の象徴が金閣寺舎利殿しゃりでんで、自分の権力を誇示したといわれている。

* 舎利殿とは? ”仏舎利ぶっしゃりを安置した建物。一般に方形で、中央に舎利塔を置く”
  ”仏舎利は釈尊、仏様の遺骨をいい,それを安置した塔を舎利塔などと称する。”

義満の院政いんせいの場所として活躍した金閣寺

室町幕府の全盛期を築いた三代目義満は1394年に将軍職を子の義持よしもちに譲り、太政大臣となり、実験を持ったまま翌年には出家し院政をする。* 院政 上皇や法皇が天皇に代わって院中で行った政治(の形態)。平安時代中期、白河(しらかわ)上皇に始まる。また比喩的に、いったん引退したはずの人が実権を握って取り仕切ること。
1397年にもともと平安貴族の遊楽の地で鎌倉時代の公家、西園寺公経さいおんじきんつねが築いた豪華な山荘の北山第きたやまだいを手に入れ、金閣 舎利殿しゃりでんを中心に改築と新築をおこない翌年1398年に完成したのが金閣、山荘北山殿きたやまでんです。義満はこの金閣寺で政務を行い、公家貴族を集めて和歌や猿楽さるがくを催し、伝統的な公家の文化と新しい武家の文化を融合した北山文化と呼ばれる華やかな時代を築く。義満は北山殿きたやまどのとよばれ君臨した。
* 猿楽から歌舞中心の楽劇が発達して「猿楽の能」と呼ばれ、足利義満の時、観阿彌かんあみ世阿彌ぜあみらの出現によって芸能として完成した。

また義満は日明にちみん貿易(勘合かんごう貿易で巨額の富を築く。義満の本邸となった北山殿きたやまでんは中国明国の使節の送迎など公的な場としても使われました。
ちなみに明から輸入されたものは、銅銭、生糸、薬草、砂糖、青磁器、書画、漆器など、一方日本から輸出されたものは、銅、刀剣、蒔絵、扇、純金など。
* 勘合貿易とは?   当時日本と中国の間に、倭寇わこうと呼ばれる水軍が力を持ち、海賊となって中国船を襲ったりしていたため、海禁政策をとり、他国との自由な渡航や貿易を禁止したため、義満は日本と明との貿易には勘合札かんごうふ割符わりふ、通行許可書を持った者だけがおこなえるようにした。

後小松ごこまつ天皇の行幸

1408年 21日間にわたる、皇室史上最高の後小松天皇の行幸が行われる。天皇が20日も外泊するとは、義満の権力の絶大だったことがわかる。ちなみに江戸初期 3代目徳川家光の時の後水尾天皇の二条城行幸は、徳川家の威信をかけたものだったが、4泊ほどだったと示されている。

この後ほどなくして義満はなくなり、子の義持は義満の遺言により夢窓漱石むそうそうせきを開山として北山殿を禅寺に改め、義満の法号ほうごう鹿苑院ろくおんいんから鹿苑寺ろくおんじとなる。

焼失と再建

その後、金閣寺は応仁の乱で多くの堂を失うが、江戸初期に後水尾天皇の援助により再建される。

1950年(昭和25年)には若い僧によって放火され、全焼する。 1955年に復元される。
三島由紀夫の”金閣寺”、水上勉の”金閣炎上”がこの事件に関して執筆しっぴつしている。金閣寺放火1950

さらに1986年日本経済がバブルの時に大規模な修復がなされる。総工費約7億4千万円。金箔約20万枚、重さにして約20kgの金が使用。金箔の厚さも約5倍になったものが2重に貼られているらしい。現在もキラキラと黄金の輝いているのは室町時代、江戸時代、昭和のバブル経済のおかげなんだと思う。

北山文化:室町時代,3代将軍足利義満が京都北山に営んだ山荘(→北山殿)を中心に展開された文化。室町時代中期に発展した 8代将軍足利義政の東山文化に対していう。義満は幕府の組織を整え,南北朝の統一を実現し,室町幕府の最盛期を現出した。花の御所(→室町殿)を営み,明との国交が回復して大陸文化が流入すると,義満を中心に芸能が盛んになった。このような北山文化は,従来の公家的なものと武家的なものとを融合したところに特徴がある。その代表的なものは,北山殿の一部に営まれた金閣(→鹿苑寺)である。貴族の寝殿造と武家造の風格,そして禅寺の静かな落ち着きが混然融合して統一のとれた建築美を示し,周囲の林泉美と調和している。芸能面では,幽玄と花(華麗)の 2要素を根底とした能楽が観阿弥,世阿弥によって大成され,義満の保護のもとに芸術的大成を遂げた。文学面では,京都,鎌倉五山の禅僧を中心とした学問,いわゆる五山文学の興隆がある。
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

タイトルとURLをコピーしました