天龍寺② 法堂~庫裏~方丈
法堂
「当寺は暦応二年(1339年)奈良県吉野の行宮にて崩御された南朝の後醍醐天皇の冥福を祈るため、足利尊氏が発願し、北朝の光厳上皇の勅許を得て、夢窓国師を開山として創建された。
天龍寺 駒札
正しくは霊亀山 天竜資聖禅寺(てんりゅうしせいぜんじ)といい、室町時代には京都五山第一位の寺格を誇った。この地は後嵯峨上皇・亀山上皇の離宮「亀山殿」であり、後醍醐天皇が幼少期から青年期までここで成長修学されたゆかりの地であった。
当寺建立のために、光厳上皇・足利尊氏は諸国の荘園領地を寄進されたが、更に御朱印船「天龍寺船」という貿易船を中国に派遣し、その利益を建立の資金とした。それにより応永年間(1425年)には七堂伽藍をはじめ120の子院等があり、4km四方にわたる壮大なものであった。
天龍寺は過去に8回の大火に見舞われ、最後は元治元年(1864)幕末の蛤御門の変で、薩摩軍の兵火にかかり、灰燼に帰した。その後、明治三十年(1897)に漸く現在の伽藍に復興し、今日に至っている。
史跡・特別名勝天龍寺庭園「曹源池」は方丈の西にあり、借景による池泉回遊式の庭園で、開山夢窓国師晩年の作庭として随一を誇るものであり、平成六年(1994)世界文化遺産に登録された。」
朱印所
法堂 雲龍図
庫裏 達磨図
平田精耕老師作 達磨図
明治32年(1899)の建立。庫裏は七堂伽藍の一つで台所兼寺務所の機能を持つ。方丈や客殿と棟続きで、切妻造の屋根下の大きな三角形の壁を正面に見せる。白壁を縦横に区切ったり、曲線の梁を用いたりして装飾性を出した建物で天龍寺景観の象徴ともなっている。
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また、玄関に入った正面に置かれる大衝立の達磨図は前管長である平田精耕老師の筆によるもので、方丈の床の間などに同じ達磨図が見られ、達磨宗である禅を象徴し、天龍寺の顔ともいえる。
式台 鬼瓦
式台とは武家屋敷などにおいて表座敷と玄関の間にあって取次の儀礼などが行われたり、家来が控える部屋のことをいう。
天龍寺(てんりゅうじ)は,嵐山を背景として建長7年(1255)に造営された離宮を,暦応2年(1339)に禅寺へ改めたものです。当初は三門,仏殿,法堂,方丈が一直線上に並ぶ典型的な禅宗寺院の伽藍が整えられ,さらに方丈の裏には夢窓疎石が携わって,自然の地形を大きな築山に見立てた庭園が造られました。その後,たびたびの兵火によって主要伽藍は失われましたが,庭園は現在も残されており,園池の北汀から東汀にかけては作庭後何回か手が加えられているものの,当時の趣を伝えています。
滝組竜門瀑(りゅうもんばく),石橋,岩島といった石組を立てたダイナミックでしかも繊細な趣の池庭で,方丈からの眺めを重視した構成や石組の手法は室町時代以降発展する枯山水庭園や護岸石組に影響を与えています。
方丈
東側 正面
この建物は方丈と称し、禅宗様式伽藍の一つで住職の居室であります。中央に祭られている本尊様は藤原時代作の釈迦如来像です。天龍寺は創建以来六百五十年間に八回の火災がありましたが、このお釈迦様はその火難を蒙らず現存されている天龍寺に祀られている仏様の中で最古の尊い仏様です。
東は中門に対し、西は曹源池に面する。東側が正面で曹源池側が裏となる。
中門