
中門 幣殿~三井神社~浦の回廊など
四脚中門 授与所
幣殿 えと詣
まず幣殿左側の西殿の御祭神、次に東殿の御祭神に参拝してから、自分の干支社のお参りする。
幣殿:神社で、参詣者が幣帛(神に奉献する供物)をささげる社殿。
ご祭神
賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと) 西殿
玉依媛命(たまよりひめのみこと) 東殿
賀茂建角身命は、古代の京都をひらかれた神さまです。山城の国一宮として京都の守護神としてまつられています。平安京が造営されるにあたって、まず当神社に成功のご祈願が行われました。以来、国民の平安をご祈願する神社と定められました。 山城国『風土記』などに、玉依媛命が鴨川で禊(みそぎ─身を清める儀式)をされているときに、上流より流れ来た丹塗の矢を拾われて床におかれたところ、矢は美しい男神になられ、結婚された。
そしてお子をお生みになったとの神話が伝えられていますので、古くから縁結、子育ての神さまとして信仰されています。当神社は、国家国民の安穏と世界平和をご祈願する守護神であるとともに、厄除、縁結、子宝、安産、子育、交通安全など人々の暮らしを守る神さまです。ご神徳
賀茂建角身命は、農耕をひろめ民生の安定につとめられたことによって世界平和、五穀豊穣、殖産興業、身体病難解除。また、『古事記』『日本書紀』には、賀茂建角身命を金鵄八咫烏(きんしやたからす)として表わされた御功績が伝えられているとおり、導きの神、勝利の神、方除、厄除け、入学、就職の試験などの合格、交通、旅行、操業の安全等多方面に御神徳を顕わしておられる。御子神、玉依媛命は、『風土記』に御神威が伝えられている。婦道の守護神として縁結び、安産、育児等。また、水を司られる神として著しい御神徳を発揚せられている
https://www.shimogamo-jinja.or.jp/about/gosaisin/
重要文化財 神服殿
重要文化財 神服殿(しんぷくでん)
夏、冬の御神服を奉製する御殿であったため、その名がある。古代祭祀の神殿様式を伝える貴重な社殿である。近世は、勅使殿 又は 着到殿となり古来殿内の一室が行幸のときは、玉座(ぎょくざ)となった。「開(あ)かずの間」として伝えられている。*天子がすわる所。
古くから御所が災害にあわれた時、臨時の御座所(ござしょ)と定められている。式年遷宮寛永五年度(一六二八)造替後は、二十一年目ごとに解体修理が行われる。
入母屋造、檜皮葺、桁行五間、梁間四間
解除所 媛小松
解除所 媛小松
当神社は古代から天皇ご親斎のお社である。行幸、御幸、官祭にさいして解除(お祓)をされるところ。常設の解除所が設けられたのは他に類を見ない。
媛小松
ちはやぶる 鴨の社のひめこ松 よろずよふとも 色はかわらじ 藤原 敏行(古今和歌集)
賀茂祭(葵祭)、御蔭祭のとき奏される東游(あずまあそび)はわが国最古の歌舞である。
この松は歌の二段目『求め子』で鴨の社のひめ小松とうたわれた媛小松である。
なお『ひめこ松』のひめは当神社の御祭神 玉依媛命の御名にちなんで『媛』と記されるようになった
出雲井於神社(いずもいのへのじんじゃ)
祭神 建速須佐乃男命
例祭日 10月14日
『延喜式』に「出雲井於神社」とある神社で「日本書紀」神武天皇ニ年の条に葛野主殿県主部とある人々が祖神としてお祭りした神社です。
古代山城北部に住んでいたこの県主部たちは、鴨氏と同じ祖先に属し「神亀3年(726)山背国愛宕郡出雲郷雲上、雲下里計帳」(『正倉院文書』)で知られる人たちです。
大宝令(700)以降、山代国葛野郡は4つに分割され、鴨川と高野川の合流点より東山、北山までの地域が愛宕郡となり鴨川の東岸が蓼倉郷、西岸が出雲郷となりました。
「井於」とは、鴨川のほとりのことで、出雲郷の鴨川のほとりの神社という意味です。承和2年(844)2月20日、太政官符によって定められた鴨社領出雲郷の総社でありました。その地域の氏神社、地主社として信仰が厚く、通称をを比良木神社と呼ばれています。
また、厄年の御祈願としてこの神社の周りに御献木すると、ことごとく柊(ヒイラギ)になってお願い事が叶う「何でも柊」と呼ばれ、京の七不思議になっています。特に古来より、お祭に「お茶」を薬草としてお供えされるところから、お茶の神様としても信仰されています。さらに「ヒラキの牛王宝札」という特別御祈願符がいただけます。
現在の社殿は寛永6年度(1629)式年遷宮の時、先の式年遷宮(天正9年[1561])に造替された御本宮本殿が移築され、当神社の中では最も古い貴重な社殿です。
重文 末社(北社) 岩本社 住吉神(スミヨシノカミ)
重文 末社(南社) 橋本社 玉津島神(タマツシマノカミ)】
重要文化財 三井神社
三井神社 別名三所社(下鴨神社摂社)
御祭神 伊賀古夜日賣命(東社) 賀茂建角身命(中社)・玉依媛命(西社)
例祭/三月七日
「風土記」山城国賀茂社の条に蓼倉里三身社、「延喜式」三井ノ神社とある神社です。奈良時代から平安時代にかけてこのあたり一帯は蓼倉郷と呼ばれていました。三身社とは、ご本宮の賀茂建角身命とその妻、伊可古夜日売命、その子玉依媛命のことであり、三神がまつられています。
諏訪社(すわのやしろ) 建御方神(たけみなかたのかみ)
神代の昔、力比べを挑まれた勇猛果敢な神様は、勇気と力を与えてくださります。
小杜社(こもりのやしろ) 水分神(みくまりのかみ)
生活に欠かすことのできない水をつかさどる神様です。
白髯社(しらひげのやしろ) 大伊乃伎命(おおいのきのみこと)別名、猿田彦命
導きの神様は、人生の指針をお教えくださいます。
平安時代の当神社社頭絵図(しゃとうえず)「鴨社古図」に描かれている各社の位置と現在なおかわりなく、糺の森の禁足地とし、ご社殿前の斎庭(ゆにわ)が葵草と苔庭など自然の中にまつられる、古代の神社の姿を伝える貴重な神社です。また、拝殿をはじめ棟門などすべてが重要文化財です。
*神をまつるためにはらい清めた所。祭の庭。斎場。
擬雪
寛政5年(1793)に光格天皇が下鴨神社に参拝した際、遺愛の白玉椿を奉納しました。花は中輪で、半八重咲き、雪と間違えるほ花の色が白いので擬雪と名づけられたそうです。しかし長年の風雪で枯れてしまったそうです。
御井(みい)「神饌の御水や若水神事など御水の祭事が行われる所。井戸の井筒を井戸屋形。上屋を井戸屋と呼び、全体を御井と称している。*井筒:井戸の地上の部分に、木・石・土管などでこしらえた低い囲い。
井戸屋の前に「水ごしらえ場」がある。式内末刀社の御祭神が御降臨される処との伝承の石(橋と呼ばれている)がある。毎年12月12日には御薬酒神事と若水をくむ古代様式の神事が行われる。」
賀茂斎院御所旧跡 葵の庭(カリンの庭)「当神社には、賀茂斎院の制が設けられていた。初代の斎王は弘仁元年(810)4月、嵯峨天皇第八皇女有智子(うちこ)内親王がト定された。賀茂斎院御所は、斎王が賀茂祭(葵祭)など年中の重要祭儀に御参向になり、期間中ご滞在になる御所であった。平安時代は御本殿の西より鴨川までが宮城であったことを、「鴨社古図」は伝えている。
建暦2年(1212)9月4日、第三十五代礼子(いやこ)内親王が御退位になるまで約400年間御座所となっていたが、文明の乱の兵火により御所棟をはじめほとんどの殿舎は消失した。その後宮域内の社殿のうち大炊殿と御井が再興された。また、忘れめや あふいを草に ひき結び かりねののべの つゆの曙
第三十一代 斎王式子(のりこ)内親王(新古今和歌集)とうたわれた葉アオイが自生する「葵の庭」も大炊殿の周辺に再顕された。大炊殿では、御薬酒なども調整されていたので、庭にはカリン、ヌルデ、クチナシ、ヤマウコギ、ニシキギなどの薬草が栽培され、特にカリンの古木が有名で「カリンの庭」とも呼ばれている」
大炊殿
大炊殿「神饌(お供え)の御料を煮炊きし、調理をする社殿で大炊所とも呼ばれている。入り口の土間に竈(おくどさん)があり、中の間は、お供えの材料や用具を洗ったり、調理する台所。奥の間は盛り付けをし、神前へお供えする順に並べて置く配膳棚が設けてある。
古くはこの社殿では、ご飯、餅、ぶと、まがり(お菓子)など穀物類が調理された。お酒は酒殿。魚且鳥類に贄殿で料理されていたが、文明2年(1470)6月10日乱の兵火によって焼失した。
その後、大炊殿は、現在の場所に再興された。酒殿は退転。贄殿は、供御所の一間に充てられた。」
浦の回廊について
浦・ウラ、とは「奥深い」とか、御陰祭の「カゲ」など、無文字時代の言葉です。
古い時代の人々は神さんのことを尊んでそのように言い表しました。「浦」は、あて字です。浦島太郎などもその一つです。奥の神さんへお参りする参道、という意味です。
先年、この付近の発掘調査の結果、古墳時代の御稲(みしね)倉跡が出土しました。稲も神々がやどられる依代(よりしろ)の信仰があります。また水分神(みくまりのかみ)をお祀りする氷室がありました。当神社の氷室は、糺の森のわき水を凍らせて年中祭事に御供しました。
*氷室:天然氷を夏までたくわえておくために設けたむろ。
古くから、四方拝と称して御本宮を四方から拝禮するために渡る回廊でしたが、戦時中、戦災防火のため撤去したのをこの程、第34回式年遷宮事業の一環として復旧が実現しました。
「唐車(からぐるま)」「儀装馬車」
「唐車(からぐるま)」唐車は、屋根の造りが唐破風(からはふ)になっているところから名づけられたもので、上皇・皇后・東宮・親王または摂政・関白が用いた最も格式の高い牛車。
乗車の際には後方から、降車の際には前方から、降りる事が決められ、車内には畳が敷かれている。
江戸時代のものを復元。
「儀装馬車」は、宮中での儀式に使用されているものと同型のもので、二頭引きランドータイプの小型馬車、車体の中央に座席が向き合う四輪馬車であり、可動式の幌を備えている。「下鴨神社」では、毎年5月に行われる「賀茂祭」(「葵祭」)の前儀「流鏑馬神事(やぶさめしんじ)」及び「御蔭祭」に使用しています。
末社 印納社(いんのうのやしろ)
御祭神:印璽大神(おしでのおおかみ)、倉稲魂神(くらのいなたまのかみ)
御本宮の御垣内に古くから祀られている印璽社(おしでのやしろ)の御祭神を祀り、ここに古印を納め、ご守護を仰ぐ神社である。また、この一帯は、平安初期より室町まで、賀茂斎院御所(文明の乱により焼失)のあった由緒地である。
末社 愛宕社(東社) 稲荷社(西社)
末社 愛宕社(東社)おたぎのやしろ
御祭神 火産霊神(ほむすびのかみ)
稲荷社(西社)
御祭神 宇迦之御魂神(うかのみたのかみ)
愛宕社は、古く賀茂斎院御所の守護神として御所内に祀られ、稲荷社は賀茂斎院御所(文明の乱により焼失)並びに忌子女庁屋(文明の乱により焼失)の守護神として庁屋の池庭の中島に祀られていた。
文明の乱以後、この両社を相殿としてこの旧地に祀ったものである。
御手洗(みたらし)-三本杉
御手洗(みたらし)-三本杉 第6回 應保元年(1161年)9月26日式年遷宮の記録「治承遷宮記」に、日照りの際に車止橋のたもとの御手洗の御井に雨降るを祈るとあり、古来より糺の森三本杉から湧出する神水により、人々の生活や田畑を潤していたことで知られる名水です。
御手洗とは御祭神の神話が伝えている船形磐座です。
御神水樋は糺の森の杉の古木を用いて三本杉が復元しました。背景は、崇神天皇7年(BC90年頃)当神社神地に瑞垣(みずがき)を賜ったという記録により透塀を再現しました。
*樋(とい):水を送り流すために、竹・木などで作った管。
奈良殿神地 (ならどののかみのにわ)
奈良殿神地 (ならどののかみのにわ)
— 卯の花神事の祭場
平安時代の和歌に、
「四月、神まつるところ、卯の花に、うちみえまよふ ゆふしてて けふこそ神を まつるへらなる」
と詠われている。葵祭を前にして解除(お祓)の神事がおこなわれた祭場。また、平安時代の「左経記」という史料 長元四年(1031)、賀茂斎王が難良刀自之神(ならとじのかみ)を祀られた条りにみられるように、歴代賀茂斎王が大祭を前に祭祀をおこなわれていた祭りの地(にわ)である。
奈良殿神は、御供え物や器などを司る神であり、当神社御祭神の神話伝承により、川の中の「舩」形の島を磐座とした。神殿を設けない無社殿神地として古代祭祀が伝えられている。島の周辺に卯の花が群生していたところから詩歌によく詠まれている。
また、舩島の周囲を流れる川を「奈良の小川」と呼ぶのも難良刀自之神の由来から。
*舩:大型の舟などの意味をもつ漢字