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東山区

八坂の塔 八坂庚申堂
八坂の塔 夢見坂 八坂庚申堂 夢見坂 八坂の塔 東向 八坂の塔西向 この先、東大路-八坂通 交差点 東大路通と八坂通の交差点から東へと延びる緩やかな石畳の坂道、法観寺(八坂の塔のある寺)の開基といわれる聖徳太子が仏法興隆を夢見たことにちなんで「夢見坂」と呼ばれていて、五重塔を見上げる景色で有名。 八坂庚申堂(八坂の庚申さん) 東大路から夢見坂 東向き 庚申堂へ高山寺南門通りから下河原通り南向き 庚申堂へ 庚申信仰 庚申信仰とは年に6回ある庚申の日の前夜に、人間の体内にいる三尸(さんし)の虫が、眠っている間に体内から這い出し、その人の罪を天上の帝釈天に告げて寿命を短くすると言われるため、夜は眠らずに明かし、三尸(さんし)の虫を封じる ”庚申待ち” と呼ばれる信仰が広まったものです。 庚申さんのお使いであるという三猿(見ざる、言わざる、聞かざる)と「くくり猿」は布で作られた幾つもの猿の人形が四肢をくくられて吊るされています。欲望のままに行動する猿を動けない姿にすることで、欲に走らないよう人間を戒めているのです。 撫で仏 びんずるそんじゃ 本尊の青面金剛は飛鳥時代に、渡来系秦氏の族長・秦河勝が帰化した際に持参した仏像で、秦氏の守り本尊として祀られたものだといわれています。平安時代に秦氏滅亡の際に、浄蔵貴所(じょうじょうきしょ)により建立されました。 霊応山(れいおうざん)と号し、臨済宗建仁寺派に属する。寺伝によれば、聖徳太子が如意輪観音の夢のお告げにより建立し、往時は延喜式7ヶ寺のひとつに数えられ隆盛を極めたが、現在は八坂塔(五重塔)と太子堂、薬師堂の2宇を残す 案内版より 三年坂から八坂の塔
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円山公園
https://kyoto-maruyama-park.jp 円山公園 案内版 長楽館
長楽館公式 | 京都の歴史的ホテル・カフェ・レストラン
トップページ-長楽館公式 京都の人気エリア、東山、円山公園、八坂神社にお越しの際は長楽館へお越しください。長楽館は明治42年に煙草王・村井吉兵衛によって建てられて以来、 おもてなしの場として、国内外の様々なお客様をお迎えしてきました。フレンチ料理、カフェのご利用以外に結婚式や貸会議室としてもご利用いただけます。
https://www.kyotopublic.or.jp/parking/search/detail/0f596a2b-268e-4b84-892e-c843c7429584
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祇園 安井金比羅宮
http://www.yasui-konpiragu.or.jp/ 安井金比羅宮 鳥居 北側 東山安井北側南側東側 東大路沿い東側 東大路沿い 安井金比羅宮について 祭神として崇徳天皇(すとく)、大物主神(おおものぬしのかみ)、源頼政(みなもとのよりまさ)の三神を祀る。 社伝によれば、保元の乱(1156)に敗れて讃岐(香川県)で崩じた崇徳上皇の霊を慰めるため、建治年間(1275~1277)に大円法師が建立した光明院観勝寺かんしょうじが当社の起こりといわれている。その後、観勝寺は応仁の乱の兵火により荒廃し、元禄八年(1695)太秦うずまさ安井(右京区)にあった蓮華光院が当地に移建され、その鎮守として、崇徳天皇に加えて、讃岐金刀比羅宮より勧請した大物主神と源頼政を祀ったことから、安井の金比羅さんの名で知られるようになった。 本殿東の江馬館には、当社に奉納された大小様々な絵馬が陳列されており、江戸時代の画家山口素絢そけん等の作品も含まれている。 また、境内にある「久志くし塚」は、古い櫛の供養のために築かれた塚で、毎年九月の第四月曜日に櫛祭くしまつりが行われる。案内版 京都市 有名人の絵馬 桂米朝 横山やすし!手水舎 縁切り縁結び碑 崇徳天皇は、讃岐の金刀比羅宮で参籠(おこもり)して欲を断ったということから、安井金比羅宮では古くから断ち物の祈願所として信仰されています。 「縁切り縁結び碑」は形代かたしろに願い事を書いた後、中央の穴をくぐります。表から裏にくぐると悪縁が断たれ、裏から表にくぐると良縁に恵まれます。 拝殿 本殿 安井天満宮 安井天満宮拝殿 本殿
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祇園 四条通り 
鴨川 出雲の阿国銅像 四条大橋 東詰北にある出雲の阿国の銅像 出雲の阿国はこの四条河原で先鋭的な伊達男風の扮装で「かぶきをどり」を披露、関ヶ原合戦後のすさんだ世に都人を驚かせ絶大な喝采を浴びました。 歌舞伎の元祖といわれている阿国の出生は不詳ですが、出雲大社の巫女で一座を率いて勧進のため入洛、北野天満宮の定舞台で名声を得て各地を巡業しその人気が広まりました。 江戸時代に入り、風紀を乱すと女歌舞伎禁止令が出て、男が女形を演じるようになり今日の歌舞伎に発展しました。 阿国は晩年出雲に帰り、尼僧となって生涯を終えたと伝えられ、その墓は島根県大社町と京都の大徳寺高桐院にも存在しますが、伝説の域を出ません。 南座
南座
松竹株式会社の公式サイトです。歌舞伎や演劇の公演情報をご紹介しています。
北向 大和大路 一銭洋食東向 八坂神社西向 四条大橋
京都祗園名物「壹錢洋食」 | 京風おやつ感覚で人気のお好み焼の元祖
京都の祗園で今も愛していただいています壹錢洋食。そもそも壹錢洋食とは、大正から昭和の初めころ、駄菓子屋のおばさんたちがおダシ入の水で溶いた小麦粉を鉄板で焼いた上に、刻んだおネギなどを乗せてさらに焼き上げ、ソースをかけて、主には近所の子どもたちのおやつとして一銭で販売されていたものです。
四条 花見小路 花見小路 北向き花見小路 南向き 原了郭 & よーじや
店舗のご案内|祇園 原了郭
創業は一七〇三年。元禄より一子相伝で守り伝えた秘伝の味。原了郭が生み出した「黒七味」「御香煎」をはじめ、各種香煎・薬味を取り扱う原了郭の公式WEBサイト。原了郭の歴史や取扱い商品の紹介など。
祇園本店|あぶらとり紙のよーじや|あぶらとり紙のよーじや公式サイト。「京の美意識」の伝統を守り育ててきた、日本でも数少ない美粧品のブランドです。|
祇園本店|あぶらとり紙のよーじや|あぶらとり紙のよーじや公式サイト。「京の美意識」の伝統を守り育ててきた、日本でも数少ない美粧品のブランドです。
東向き 八坂神社西向き 花見小路 四条大橋 八坂神社 西楼門 石段下
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祇園 花見小路
祇園南側 花見小路 私道撮影禁止 今は花見小路の私道撮影禁止のサインがあちらこちらにあり、人はいないけれど、ゆっくり撮影できる雰囲気では全くなかったです。 ネットで調べたら詳しく調べられたブログサイトがあり、下記のような地図をアップされてました。赤が撮影禁止だそうです。 ご参考に。
https://ameblo.jp/kasakot/entry-12581501810.html
今日 2020年10月6日ですが、写真を撮れなかったので大通りの写真だけですが、4年ほど前に撮った写真をいくつかアップしておきます。 2019年にあった火事の所もだいぶ再建築されたようでまだ工事中のところもありましたが、きれいになってきましたが、以前のような観光客が戻ってくるのはまだ先のような気がしますが、祇園の方々は複雑な気持ちなのでしょう?
京都・祇園で火災、周辺の店の客ら避難 現場は騒然:朝日新聞デジタル
 8日午後9時15分ごろ、京都市東山区祇園町南側の小料理店の女性店主から「店内に煙が立ちこめている」と119番通報があった。市消防局などによると、木造2階建ての同店を含む5棟が燃えており、約20台の消…
以前に撮った写真 祇園甲部歌舞練場  八坂女紅場学園  授業日割表ぎおん徳屋祇園甲部歌舞練場  わらびもち、甘味処で有名な「ぎおん徳屋」には八坂女紅場の授業日程表が掲げられています。 八坂女紅場学園は1872年(明治5年)に創設された八坂女紅場が母体である。1902年(明治35年)、財団法人となる。1951年(昭和26年)、学校法人となる。都をどりで知られる祇園甲部歌舞練場(ぎおんこうぶかぶれんじょう)に付属するように看板があがっている。通称「にょこば」。「女紅場」(じょこうば)は、明治初期、全国でにつくられた女子のための習い事の施設。のちにこの言葉は用いられなくなった。祇園女子技芸学校の必須科目は舞、鳴物、茶道、三味線。その他、能楽・長唄・一中節・常磐津・清元・地歌・浄瑠璃・小唄・笛・華道・書道・絵画などを学ぶことができる。生徒は祇園の芸・舞妓の全員で、年齢は15歳から80過ぎまでと幅広い。ウィキペディアより
お知らせ | ぎおん徳屋【公式】 わらびもち、和菓子、甘味処 こだわりぬいた味でおもてなし
祇園女紅場
祇園商店街は八坂神社参道として、日本の美意識に出会えるまちを目指します。
京の五花街
京都花街オフィシャルサイト京の五花街
建仁寺
建仁寺 The Oldest Zen Temple Kenninji
建仁寺は臨済宗建仁寺派の大本山で、建仁2年に開創しました。開山は栄西禅師、開基は源頼家です。坐禅体験、写経体験受け付けております。
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祇園北川 白川
祇園 白川 巽橋 辰巳神社 大和橋 四条通から大和大路通(繩手)を北に行き大和橋を右に入ると白川筋に入る。通常は観光客で昼もにぎわう場所で、祇園の昔ながらの街並みの中、写真を撮る方で以前はいっぱいでしたが、今はまだまだ観光客少ない状態です。 桜の時期は最高の撮影場所です。 かくかくに碑 「かにかくに 祇園はこひし 寝(ぬ)るときも 枕のしたを 水のながるる」この歌は、祇園をこよなく愛した歌人として知られる吉井勇(よしい・いさむ)が1910年に詠んだ一首で、彼の歌集「酒ほがひ」に収められている。 辰巳大明神(辰巳神社) 辰己大明神を祀る祇園新橋一帯は、幕末から明治時代にかけて花街として隆盛を極め、当時の著名な人々がこの界隈をこよなく愛し、度々訪れた。第二次世界対戦中の建物強制疎開や戦後の区画整理により、白川北岸のお茶屋や屋敷の建物が取り崩され、白川南通りが開かれ、現在の街並みとなった。現在の辰己大明神の地にあった旧家には、屋敷神として白蛇が祀られていた。旧家の移転に伴い、祠は地域に受け継がれ、巽橋北詰の橋の袂に祀られ、祇園の料理人が卵を供え、信仰していたと云われている。祠は、戦後、巽橋の改修に伴い、現在の辰己大明神の地に遷座された。白蛇は、弁天の遣いであり、芸能への職能神・弁財天信仰として転化され、やがて飲食業者だけでなく、祇園の舞妓・芸妓が信仰するようになり、その後は、技芸上達とともに、無病息災、商売繁盛の氏神として地域に信仰されている。年四回、1月には寒供養祭、2月には初午祭、7月には土用供養祭、11月にはお火焚き祭の神事を通して地域の絆を深めている。 京都市案内版より 巽橋(たつみ橋) 切り通し(きりとおし) 切通 新橋通り 新橋 花見小路 交差点新橋通り火除け地蔵 火除け地蔵 地蔵菩薩はあらゆる場所に身を変えて現れ、六道の衆生を救ってくれるとともに、様々な現世利益をもたらしてくれると言われている。 代表的な御利益の一つとして「火除け」があるとしている。 また地蔵菩薩は、冥界と現世の境で邪悪な霊魂を祓うとされ、地蔵菩薩は、町の境界などに安置された。境界は、子どもの埋葬地であったため、地蔵菩薩は子どもを守護するという信仰も生まれる。
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