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平城時代「奈良時代」とは

平城時代 聖武天皇

710年(和銅3年)に元明天皇(げんめいてんのう)によって平城京へいじょうきょう「奈良の都に都が移ってから、794年(延暦13年)に桓武かんむ天皇によって平安京へいあんきょうに都が移るまでの84年間の時代を平城時代または奈良時代という。

大宝律令の制定、平城京遷都せんとには藤原不比等ふひとが重要な役割を果たし、中国(とう)の都、長安ちょうあんを参考にした都を造営し、貴族、皇族が住民の大半を占める政治都市が造られる。そしてこの奈良の都、平城京を中心にして、天平文化てんぴょうぶんか、華開いた貴族・仏教文化が栄える。

平城時代、東大寺を建てた聖武天皇の時代。

701年 文武もんむ天皇の息子、首皇子おびとのみこ、後の聖武天皇が生まれる。

701年に大宝律令たいほうりつりょう という法典ほうてんが完成する。 大宝律令は、唐の律令という法律を参考にしています。 「りつ」は罪人ざいにんをさばくための刑法けいほうで、「りょう」は役所や役人などに対する法律です。
* 律令にもとづいて政治を行う国家のことを、律令国家りつりょう こっか と言います。

707年 文武天皇が病気で若くして亡くなる。まだ首皇子おびとのみこが子供のため、母の元明天皇が即位。

       708年 和同開珎の鋳造

       710年 藤原京から平城京へと遷都しました。

       遷都の明確な理由は不明であるが、唐を参考にした新しい律令国家となることを目指したと思われる。

724年 成人した聖武天皇が即位する

★皇族の権力争い: 左大臣さだいじん 長屋王ながやおう VS 藤原ふじわら(藤原四兄弟) 
* 左大臣:天皇に次ぐ最高権力者
* 聖武天皇はその母と妻に藤原不比等ふひとの娘をもつ。
728年 聖武天皇が溺愛していた皇太子の(もとい)皇子(みこ)が1歳で亡くなる。
藤原氏は長屋王を謀反の疑いで攻撃し自害させます。
* 長屋王は藤原氏を母に持つ基皇子を即位させることを良く思っていなかった。

天然痘てんねんとう疫病えきびょうが大流行: 藤原四兄弟、多くの官僚かんりょうも亡くなる。民衆は苦しみ、冤罪えんざいで長屋王をほうむったたただとうわさになり、民衆が恐れることとなる。

右大臣うだいじん 橘諸兄たちばなのもろえの政権―元遣唐使の吉備真備きびのまきび玄昉げんぼうの採用
疫病のため、多くの官僚も亡くなり、藤原四兄弟をなくした藤原氏の勢力も衰退する中、橘諸兄が右大臣になり、新しい人事を行う。唐の制度を参考に国造りをしていたので、身分にかかわらず、唐について理解している人が採用され、元遣唐使であった吉備真備(きびのまきび)玄昉(げんぼう)が特に重用されていた。 

★藤原広嗣ひろつぐの乱: 739年に素行(そこう)の悪さから大宰府だざいふ左遷させんされていた藤原四兄弟の子孫、藤原広嗣が九州にて反乱をおこす。新しい人事に対しての不満。聖武天皇が即対応して反乱を制圧する。

聖武天皇が即位してから、疫病、大地震、権力争い、反乱などいろいろな困難があり、聖武天皇も迷い、()()(きょう)(京都府木津川市)、紫香楽宮(滋賀県甲賀市)、難波宮(大阪市中央区法円坂)に都を移そうとしますがどこもうまくいかず、平城京に戻ります。こういった時代の流れの中で、聖武天皇は仏経の力で国を守る鎮護国家の政策をとり平穏を取り戻そうとします。

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