大本山百萬遍知恩寺
百万遍交差点(東大路 今出川)
総門 西門
総門 西門 総門(寛文二年1662) 西門(正徳元年1711)
百萬遍知恩寺(ひゃくまんべんちおんじ)
長徳山功徳院と号し、浄土宗八総大本山の一つである。もと賀茂社(上賀茂神社と下鴨神社の総称)の社領とされた今出川の北(今の相国寺辺り)に賀茂の河原屋と呼ばれる草庵があり、賀茂宮司の懇願により法然上人もこの庵に止宿し、布教の地とした。上人の死後、勢観房源智上人が尊師を敬慕し、その地に御影堂を建て功徳院知恩寺と名付けたのが当寺の起こりで、賀茂社の神宮寺としての起源を持つ。
元弘元年(1331)、疫病が流行した際、第八世の善阿上人が御所にこもり、七日がかりで百萬遍の念仏を唱えて疫病を退散させたので、後醍醐天皇から「百萬遍」の寺号を賜った。その後、各地を転々とし、寛文元年(1661)※4にこの地に移った。
本堂には、本尊として法然上人四十三才の頃の姿を現したと伝える木像を安置し、その東南の御堂には釈迦如来座像を、西方の阿弥陀堂(念仏堂)には阿弥陀如来立像をそれぞれ祀る。重要文化財の顔輝筆「蝦蟆鉄拐図」をはじめ、多くの寺宝を所蔵し、墓地には法然上人や源智上人の廟、画家土佐光起の墓などがある。
京都市
御影堂(宝暦六年 1756)
釈迦堂(寛文四年1664)
平安時代より賀茂の釈迦堂として知られたお堂で、百萬遍知恩寺の本堂。
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中世浄土宗寺院は禅宗寺院建築の影響を受けていましたが、それを踏襲した様式の造りとなっています。堂内には天台座主の慈覚大師円仁作と伝わる丈六の釈迦如来坐像が鎮座しています。
法然上人は生前に「知恵第一の法然房」といわれた所以から勢至菩薩の化身だという信仰に発展し、浄土宗では勢至菩薩を本地仏として祀ることがあります。
鐘楼堂(元禄十六年 1703)
阿弥陀堂(天保三年1832)
釈迦堂と同じ禅宗様を基本としつつも江戸末期の流行を取り入れた御堂。阿弥陀如来は西方浄土に住むということから、西を背にして建てられています。堂内、来迎壁裏には宮中御用絵師土佐光孚による騎獅の文殊菩薩が描かれています。
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