トロッコ嵐山駅~御髪神社~落柿舎
トロッコ嵐山駅
御髪神社 小倉池
小倉池 御髪神社
祭神:従五位 藤原 采女 亮 政之 公(ふじわら うねめの すけ まさゆき)
亀山天皇御代(1259年~1274年)
藤原基晴卿が宮中の宝物係として仕えていたが所管の宝物を紛失した責任をとり、 探索の為諸国行脚し文永5年(1268)に下関に居を構え、三男政之公が生計を髪結職に求めたのが、髪結業の始祖であった。
髪塚:髪は人身の最上位にあって、造化の神よえい賜った美しい自然の冠りであると共に、生前にも残し得る唯一の分身として大きな恩恵に感謝する等、副神として納祭し祈拝される
御髪神社
小倉池
常寂光寺 山門前
日蓮宗の寺院である。慶長元年(一五九六)、本圀寺十六世究竟院日禛が、この地に隠棲して開創した。寺域が小倉山の中腹を占め、幽雅閑寂で、天台四土にいう常寂光土の観があるところから常寂光寺の寺名がつけられたといわれる。
多宝塔(重要文化財)は元和六年(一六二〇)の建立で、並尊閣といい、前面に霊元天皇の勅額を掲げている。本堂は伏見城の建物の一部を当寺二世通明院日韶が移転修造したものといわれる。 仁王門はもと本圀寺客殿の南門を移転、妙見堂は能勢妙見を分祀し、歌仙祠には藤原定家(ていか)・家隆(いえたか)の木像を安置する。また、時雨亭は定家山荘がこの付近であるとして建てられたものである。 京都市
土佐四天王の像
嵯峨天皇皇女 有智子内親王(うちこないしんのう)墓
落柿舎( らくししゃ )
ここは、蕉門十哲の一人として名高い 向井去来 (慶安4年(1651)〜宝永元年(1704))の閑居の跡として知られている。当時、庭にあった40本の柿の実が一夜のうちにほとんど落ちつくし、かねて買約中の商人を気の毒に思って価を返してやった。これが落柿舎の名の由来である。
芭蕉も晩年、3度当庵を訪れて、名作 『嵯峨日記』 を著した。
庭には去来のよんだ「柿主や梢はちかきあらし山」の句碑がある。
柿主さん ここの柿は風が吹けば一夜で落ちるが、それもそのはずだ、梢の向こう、すぐ近くに嵐山だから。
去来は長崎の生まれ、芭蕉に師事して俳諧を学び、その芭蕉をして「洛陽に去来ありて、鎮西に俳諧奉行なり」といわしめた。かつて武人であった去来は極めて篤実真摯な人柄で、芭蕉に仕えるさまは、ちょうど親に対するようであった。 *鎮西:九州の異称。大宰府を一時鎮西府と称した。
その句 「鴨なくや弓矢を捨てて十余年」 はよく知られている。