真如堂(鈴聲山真正極楽寺)(れいしょうざん しんしょうごくらくじ)
吒枳尼天(法伝寺)だきにてん(ほうでんじ)
吒枳尼天(法伝寺)だきにてん(ほうでんじ)
真如堂の入り口に左手に鳥居と「吒枳尼天(だきにてん)」の石標があります。神仏習合時代に真如堂の稲荷堂でしたが、現在は塔頭寺院の法伝寺となっています。吒枳尼天は、中国に伝わり密教に取り入れられ、胎蔵界曼陀羅外院にあって大黒天に所属する夜叉神とされ、仏教を守護する神。明治の神仏分離令によって、本地仏の吒枳尼天と呼ばれるようになりました。本地仏とは、神道あるいは日本古来の神が人々を救うために仏教の仏(神)の姿になって現れたもの。
総門 参拝者専用駐車場
総門
元禄8年(1695年)完成。真如堂西側の神楽岡(吉田神社)の神々が夜にお参りに来る際につまずかないように敷居がないとされています。赤門と呼ばれて親しまれています。
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三重塔
文化14年(1817年)に再建。多宝塔をまつった本瓦葺で高さ約30メートル
本堂(重要文化財)
正しくは真正極楽寺という天台宗の寺である。
平安中期の永観2年(984年)、比叡山延暦寺の僧・戒算上人が延暦寺の常行堂にあった阿弥陀如来像を東三条院藤原詮子(一条天皇の母 藤原道長の姉)の離宮に移し、安置したのが始まりとされる。当初、この場所の東北に位置する元真如堂(換骨堂)の地にあったが、応仁の乱で荒廃した後、各地を転々とし、元禄6年(1693年)に現在地への再建が開始された。
本堂(重要文化財)は江戸時代の享保2年(1717年)の上棟で、京都市内の天台宗の寺院の本堂として最大規模を誇り、内部には、本尊の阿弥陀如来立像(重要文化財)が祀られている。本尊は「うなずきの弥陀」とも呼ばれ、毎年11月15日にのみ開帳される。
寺宝として、仏師運慶の発願によって書写された法華経6卷(国宝)をはじめ、応仁の乱などを描いた室町時代の真如堂縁起(重要文化財)、毎年3月に公開される大涅槃図など、多数を蔵する。秋には、東山を借景にした「涅槃の庭」や三重塔、梵鐘に色付いたもみじが映え、紅葉の名所としても有名である。
「菩提樹」は仏教3聖木の一つで、この木の下でお釈迦様は悟りを開かれたとされています。「菩提」とは「正しい悟りの智」を意味する「ボーディ」を音写したものです。インドの菩提樹はクワ科ですが、真如堂はもとより、日本の寺院に植えられている菩提樹はシナノキ科で、両者は異なる種類です。
仏教が中国に伝わった時、インドの菩提樹は中国に育たなかったので、これに似た葉を持つ中国原産のこの木を「菩提樹」と呼ぶようにしたようです。日本へは12世紀頃にもたらされました。6月半ば、散房状の集散花を下向けに出し、淡黄色の香りの良い花を咲かせます。花期は短く、花を見ることが出来た人はご縁のあった方だと。花後すぐに結実し、7~8ミリに成長して、秋には茶色く熟します。真如堂には「実が2つ以上付いているものを財布に入れておくとお金が貯まる」という言い伝えがあります。数珠で「菩提樹」と表示されているのは、この木の実ではありません。
京都映画誕生の碑
博教大師巡錫之像
京都映画誕生の碑
1895年フランスのリュミエール兄弟によって発明された映画(シネマトグラフ)が, 2年後の1897年に実業家稲畑勝太郎氏の手により日本に持ち込まれ,初めて上映されたのがこの京都の地でした。当初の映画は、すでに存在する物を対象にした撮影で、今日でいう記録映画でした。
1908年,横田永之助氏の依頼をうけた牧野省三氏は,シネマトグラフを用いて歌舞伎の劇映画化に挑戦しました。思えば歌舞伎の原点は京都の地にありました。牧野省三氏の試みは,この歌舞伎という京都の伝統芸能を映画という新しい時代の科学技術と結びつけ,京都の映画を誕生させたのです。以来,京都では多様にして大量の映画が創られることになりました。これを支えたのが,京都がもつ伝統芸能の力,伝統工芸の力,歴史都市京都の歴史的景観等々,まさに,京都の文化力に培われたものであり,それが1世紀間の時を経て京都の文化となりました。
京都で劇映画が創られて100年目というこの記念すべき節目の年に当り,牧野省三氏がその第1作「本能寺合戦」を撮影したこの地「真如堂」境内に,その足跡を深く刻み,益々の映画発展を願って「京都・映画誕生の碑」を建立するものであります。
2008年10月1日
「京都・映画100年宣言」プロジェクト推進協議会
元三大師堂
新長谷寺
「洛陽三十三所観音霊場巡礼」第5番札所。明治時代の神仏分離により吉田山から移築されました。奈良県の長谷寺の御本尊十一面観音を模した観音像がまつられています。
県井観音(あがたいかんのん)
京都御所にある県井戸
県井観音は、今も京都御苑の宮内庁京都事務所の西側にあり、染井、祐井と共に、御所三名水の一つに数えられている『県井」という井戸から出現されたところに、その名前の由来があります。
昔、この井戸のそばには「県宮」という社があって、地方官吏に任命されたいと願う人々がこの井戸で身を清めてから社に祈願し、宮中に参内したといわれています。
「蛙鳴く県の井戸に春暮れて散りやしぬらむ山吹の花(後鳥羽院)」などと蛙や山吹と詠まれることが多く、『枕草子』にも、「家は、近衞御門、二條一條も好し。染殿の宮、清和院、菅原の院、冷泉院、朱雀院、とうゐん、小野宮、紅梅、県井戸、東三條、小六條、小一條(第十九段)」と賞賛されています。菅原道真公や明治天皇の皇后が産湯に使ったとも伝えられています。
順徳天皇の御代、承久年中(1219~1222)、洛中洛外に悪疫が流行した際、この病にかかった橘公平が「県井」の水を飲んで観音さまを念じたら、10日程して疫病が治ったといいます。10日目の夜、井戸の水を汲みに行くと井戸の中から黄金の如意輪観音が現れ、「この井戸の水を汲む者、必ず病が癒えるであろう」とお告げになったといいます(県井は『大和物語』で、病気を治す不思議な水と記されています)。
この話を聞いた天皇はこの像を宮中にまつられましたが、一条東洞院にお堂を建て、「法伝寺」と名付けられました。お堂はその後度々兵火に罹って灰燼と帰してしまいましたが、元禄6年(1693)に真如堂尊通大僧正によって、真如堂の境内に移されました。法伝寺は、現在総門前に移転していますが、如意輪観音はそのままこのお堂にまつられています。
長く枯れたままになっていた京都御苑内の県井でしたが、近年、もとの古い県井から十メートルほど南に、深さ八十メートルの新しい井戸が掘られ、ポンプで地下水か汲み上げられています飲まないようにとの保健所の指導があり、せっかくの名水も公式には飲んではいけないことになっています
阿弥陀如来露仏
江戸時代に木食正禅養阿上人が建立。功徳日参りを3年3ヶ月間続けると、無病息災、家運隆盛、祈願成就のご利益があるという「洛陽六阿弥陀巡り」を発案した僧です。
たてかわ桜
たてかわ桜
徳川家光の乳母である春日局(1579-1643)が、父斎藤内蔵介利三(1534-1582)の菩提を弔うために植えたものです。染井吉野の樹皮が横向けに走るのに対し、樹皮が縦に走るという特徴から、たてかわという名があるとか。江戸彼岸系の品種です。
斎藤利三は明智光秀の重臣でしたが、本能寺の変の後、秀吉軍に山崎の戦いで負け、敗走した近江堅田で捕らえられて、六条河原で斬首されます(首もしくは胴体は光秀とともに本能寺に晒されたと言われています)。その首を、親交の深かった東陽坊長盛(当寺塔頭東陽院の開祖)と海北友松が奪って持ち帰り、真如堂に葬りました。東陽坊長盛は利休とも交友のあった当時塔頭東陽院の開祖で、建仁寺の茶席「東陽坊」もこの僧の名に由来します。海北友松は倭風に朝鮮の遺風を加え、山水・花鳥・人物等に独特の境地を開いた画家。 東陽坊・友松・利三は、共に真如堂に眠っています。
桜は野生種間での交雑が盛んな上に、江戸時代には参勤交代などによってそれがますます進み、離合集散を繰り返した結果、多くの栽培品種(一説には500種)が誕生したといいます。春日局が当時主流だった山桜や他の品種ではなく、江戸彼岸系という桜を選ばれたのは、この種が長寿だったからかも知れません。
お手植えから300年以上を経た、たてかわ桜は、直径が1メートル余にもなっていたといいますが、伊勢湾台風(1959)で折れてしまいました。幹の中には子供が入れるほどの大きな空洞が空いていて、今もその名残が幹の内側に見られます。数年後、奇跡的にも折れた幹から芽を吹き、取り木などを試みましたが失敗。しかしすくすくと育つ芽があり、やがて大きくなって、今では毎春少し小振りで清楚な花をさかせるようになりました。
水上勉氏は小説『桜守』の中で、この桜のことを、「枯れかけた老木の皮が若木を活着させて、見事に枝を張った。葉も大きかった。宇多野(作品中の人物)は親桜と同種の桜を接いだのである。弥吉は、めずらしい巨桜の底力をみて感動すると共に、周りに一本の石をたてて、「たてかわ佐久良」と宇多野が命名しているのに涙をおぼえた」と著しています。「宇多野」は京の桜守として著名な某氏のことのようで、実際にこの桜の再生を試みられましたが成功しなかったそうです。*桜の木の世話をする人
たてかわ桜は、染井吉野より3日ほど早く咲きます。
小林君之碑(おばやしくんのひ)
小林祝之助(おばやししゅくのすけ,1892~1918)は大豊神社(左京区鹿ケ谷宮ノ前町)宮司の長男として生まれた。大正2(1913)年5月4日,伏見の深草練兵場で初めて見た飛行機が着陸に失敗し,操縦士飛行家武石浩玻が死亡したのを目撃し衝撃を受けた。これをきっかけに飛ぶことにあこがれて,操縦を学ぶために、第一次大戦のさなかに渡仏した。その後正式にフランス軍航空兵となりドイツ軍機と戦い、大正7(1918)年6月7日に撃墜され戦死した。
この碑は小林祝之助を記念する碑である。「碑文」
小林君之碑 元帥川村景明閣下題額
祝之助君は錦林学校出身の士なり剛毅にして果決愛国心に富む大正四年世界大戦正に酣なるのとき雄志を懐きて渡欧し翌年五月義勇兵として仏国航空隊に入り次て従軍せしか屡々重要任務を果し全軍の賞讃を博したりと云ふ大正七年六月七日クーヴルの上空に独機と戦ひ奮闘中機体より火を発し壮烈無比の最期を遂く後ち仏国大統領はクロバドーゲル勲章並感状を厳父忠一君に贈り以て君か赫々の武勲を表彰したり蓋し君の戦死は日本国民の忠誠勇武を欧洲の天地に宣示すると共に日仏両国の親善に資するところ甚大なりしなり同窓隣閭感慨措く能はす茲に碑を建て其の偉績を録す
大正十四年五月 陸軍少将杉村勇次郎選文並書
小林祝之助君記念事業会建之
石匠芳村茂右衛門刻
殺生石 鎌倉地蔵尊
殺生石 鎌倉地蔵尊穏縁起
今から千三百年前、中国に白面金毛九尾(金色の毛に覆われ九つ尾をもつ)の狐がいて、美女に変身して皇帝をとりこにし、国を傾けさせました。しかし、やがて正体を見破られ、逃げて日本に渡りました。
狐は、日本でも「玉藻前(たまものまえ)」という美女に変身して、鳥羽上皇の寵愛を得ましたが、陰陽師安倍泰親(安倍晴明の子孫)に見破られ、東の空に飛び去って下野国(今の栃木県)那須野原に逃れました。
その後、狐の仕業と思われる出来事を幾度も耳にした上皇は、上総介と三浦介に妖怪退治を命じました。二人は神前で百日の行を行って狐退治のお告げを受け、上総介の弓の矢は見事にこれを射抜き、三浦介がとどめを刺して、首尾よく妖狐を退治しました。
その時、この悪狐の魂は石と化しましたが、なおも悪霊となって近寄る生き物を殺すので、「殺生石」と呼ばれて恐れられていました。
これを知った玄翁禅師(室町時代の僧)は、殺生石を柱杖で叩いて割り、悪霊を成仏させました。禅師は三つに割れた石片の一つで地蔵菩薩を刻み、鎌倉に小さなお堂を建ててまつりました(金槌を「げんのう」と呼ぶのは玄翁和尚に由来すると言われています)。
江戸時代当初、この像を篤く信仰していた甲良豊後守(幕府作事方大棟梁職として日光東照宮などを造営)の夢中にこの地蔵尊が現れ、自分を衆生済度の霊場 真如堂に移しなさいと告げます。備後守は、それに従って地蔵尊を真如堂に遷座しました。「鎌倉地蔵」の名は、この尊像が当初鎌倉に安置されていたことに由来します。
鎌倉地蔵は、家内安全・福寿・延命などのご利益の他、無実の罪を晴らしたり、心の病が治るなどのご利益が、信仰の深さに応じてあるといわれています。