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右京区

嵯峨釈迦堂 清凉寺
嵯峨釈迦堂 清凉寺
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清凉寺(嵯峨釈迦堂)の公式ウェブサイトです。清凉寺の簡単な歴史、境内の案内、参拝の案内、年中行事、交通の案内などを登載。また清凉寺境内・建物の写真もいくつか載せています。
仁王門 清凉寺せいりょうじ (嵯峨釈迦堂さがしゃかどう) 五台山と号する浄土宗の古刹さつで、「嵯峨釈迦堂」の名で知られている。この地には、一説では『源氏物語』の主人公の光源氏のモデルであったといわれる源融(みなもとのとおる)の山荘、棲霞観(せいかかん)があり、融の没後、棲霞寺(せいかじ)としたのが当寺の始まりである。天慶8年(945)に等身大の釈迦像が安置され、これが通称の由来ともいわれている。その後、インド、中国、日本の三国伝来となる釈迦如来立像を持って宋(中国)から帰国した奝然上人(ちょうねんしょうにん)が、その像を安置するため、愛宕山を中国の五台山に見立てた「大清涼寺」の建立を計画したが、志なかばで没したため、弟子の盛算(じょうさん)が清涼寺を建立して像を安置した。昭和28年(1953)、背中に蓋ふたが発見され、中に内臓を模した絹製の五臓六腑ろっぷなどが納められていたことから、生身のお釈迦様とも呼ばれている。本堂は、元禄14年(1701)に徳川5代将軍綱吉、その母桂昌院けいしょういんらの発起により再建されたもので、本尊の釈迦如来立像(国宝)を安置しており、霊宝館には、阿弥陀三尊像(国宝)、文殊菩薩騎獅きし像(重要文化財)等、多数の文化財が祀られている。このほか、境内には、奝然上人、源融、嵯峨天皇、檀林だんりん皇后の墓などがある。京都市 法然上人像 仁王門 多宝塔 法然上人像多宝塔 法然: 平安時代後期-鎌倉時代の浄土宗の開祖 清凉寺案内図 愛宕権現社 一切経蔵(別名「輪蔵」) お釈迦さまが、お説きになった一切の法(経典)が収められている経蔵です。 この経蔵には唐紙製の明板本五千四百八巻の大部が収められています。 法輪を一回転すれば一切経を読んだありがたい功徳が得られます。明るく正しい人生道を歩んで下さい。輪蔵 正面 善慧大士座像、|両脇 普浄、普賢像 |四隅 四天王像 阿弥陀堂 棲霞観せいかかん跡(清凉寺) 嵯峨天皇皇子で皇族賜姓の源融(822~895)が、9世紀後半に嵯峨に営んだ山荘。融は晩年に写経や造仏に着手したが業なかばで他界したので、子供たちが完成させて棲(栖)霞寺とした。永延元年(987)、奝然(ちょうねん)は宗より請来した釈迦如来像ほかを棲霞寺境内に安置し、宗の五台山清凉寺に倣った寺院の建立を目ざしたが果たせず、遺志を継いだ弟子によって棲霞寺の一部に釈迦堂として発足したのが清凉寺である。かつて棲霞寺にあった阿弥陀三尊像(国宝)は現在、清凉寺の霊宝館に安置されている。「源氏物語」「松風」に、光源氏が造営した「嵯峨の御堂」は大覚寺の南に所在したとあり、棲霞観の場所と一致する。河原院が六条院のモデルということと共に、源融が光源氏のモデルとされるゆえんである。 本堂          秀頼公首塚  秀頼公首塚 大坂の陣諸霊供養碑  あでやかに 太夫となりて 我死なむ  六十路過ぎにし 霧はかなくも 名優と謳われた初代中村雁治郎の末娘に生まれた女優中村芳子が、廓文化を今に残す京の伝統の中に生きるべく、昭和55年11月島原・夕霧太夫ゆうぎりたゆうを襲名して7年間太夫としてあでやかに京のまちを舞われました。惜しくも昭和62年12月3日お亡くなりになりました。ここに、夕霧太夫を偲んでこの歌碑を建立いたしました。*遊廓(ゆうかく)は、公許の遊女屋を集め、周囲を塀や堀などで囲った区画のこと。井筒八ッ橋本舗 津田佐兵衞さへえ 薬師寺 生の六道  薬師寺生の六道 石碑 生の六道 石碑(小野篁は昼は宮中に仕え、夜は閻魔庁に通ったといわれ、東の鳥辺野入口の六道珍皇寺の井戸から冥界に入り、西の化野(あだしの)入口にある六道福生寺(現薬師寺)の井戸からこの世に戻ったという。清凉寺の西門にある薬師寺がその寺で、横に石碑が建てられている。 鐘楼 謡曲「百萬」と狂言堂 謡曲「百萬」は、大和国吉野の者が奈良西大寺辺で拾った小童こわっぱを連れて嵯峨の大念仏に参詣すると、群集の中にわが子に逢いたいと狂い舞っている一人の女がいた。これを見た小童が「あの狂女こそ母である」という。*謡曲:能の詞章のこと。 演劇における脚本に相当する。その郷里を尋ねると「私は奈良の都の百萬という者で、夫には死別し、一人子にも生別したので、心が乱れたのです」と答え、尚も再会を祈り舞い狂う。心根に打たれて小童を引き合わせると狂女は喜び狂気もおさまって、仏の功徳を感謝しながら母子共に奈良に帰って行く、という物語の曲である。狂言堂は清涼寺釈迦堂の念仏狂言のなされる所である。融通念仏の遺風とされる念仏狂言は弘安2年円覚上人の創始により、毎年3月15日涅槃会のとき、4月(日は年によって変わる)に行われる無言劇である 西門 西門 アクセス 清凉寺 参拝者用駐車場 嵯峨豆腐森嘉 甘春堂嵯峨店 嵯峨豆腐 森嘉嵯峨豆腐 森嘉甘春堂 嵯峨店
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創業安政の頃。嵯峨豆腐森嘉の「心」。
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嵐電 嵐山駅
嵐電 嵐山駅
https://randen.keifuku.co.jp/train/arashiyama.php
駅のあし湯 着物フォレスト 嵐山駅 東側踏切 メインストリートから 天龍寺 北向き嵐山 昇龍苑 西向き嵐山駅 東向き
嵐山昇龍苑|京都を代表する老舗12社が一堂に会した特別な場所 – 嵐山 昇龍苑は「老舗はたのし」をテーマに、嵐山を訪れる方々に上質な時間と空間をご提供いたします。
嵐山 昇龍苑は「老舗はたのし」をテーマに、嵐山を訪れる方々に上質な時間と空間をご提供いたします。
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嵐山 法輪寺
法輪寺 真言宗五智教団ごちきょうだんの京都本山で、和銅六年(七一三)、元明天皇の勅願により行基ぎょうきが創建した。天長六年(八二九)に、弘法大師(空海)の弟子・道昌どうしょうが中興して、虚空蔵菩薩こくうぞうぼさつを安置し、貞観十六年(八七四)には伽藍が整えられ、寺号を「葛井寺かずのいでら」から「法輪寺」に改めた。平安時代には清少納言の「枕草子」の寺の段において、代表的な寺院として挙げられるなど、多数の参詣で隆盛した。 その後、応仁の乱や蛤御門の変で兵火を受けたが、その都度再興した。 本尊虚空蔵菩薩は、「嵯峨の虚空蔵こくぞうさん」として親しまれ、智恵と福徳を授かるため、教えの十三歳の男女が全国から「十三まいり」に訪れる。平安時代に清和天皇が廃針を納めた針堂はりどうを建立したことから、針供養が行われるほか、惟喬これたか親王の故事により、漆寺うるしでらとしても知られる。また、境内には電気・電波守護の電電宮社でんでんぐうしゃが祀られている。 電電塔 電電塔について電気電波の祖神電電宮が祭祀されている、当法輪寺境内に電電塔を建立し、その発展の基を築かれたエジソン(右)並びにヘルツ(左)の胸額を壁面に飾りその功を顕彰すると共に、広く電気電波の発展隆昌に貢献せられた先覚功労者の霊を慰めるものである。法輪寺電電宮護持会 電電宮 獣魂供養塔 電電宮について電電宮は当法輪寺の鎮守社五社明神の一つである電電明神が奉祀されており、古来電電陰陽融合光源の徳を祖とした鎮守としてあがめられてきた。今日で云う電気電波の祖神が祭祀されている。同宮は幕末の兵火で消失したが、昭和四十四年電気電話関連業界の発展と繁栄を新たに祈願する趣旨から、新社殿の再興がなされて今日に至っている。電力、電気電子、電波の発展は人類の生活文化向上に大きく貢献し、世界の平和と繁栄に不可欠なものであり、その祖神を奉祀する電電宮は広く電気、電波関係者より崇敬されている。法輪寺電電宮護持会案内版より 多宝塔 鐘楼 八角燈籠 多宝塔鐘楼八角燈籠 針供養塔 平安時代に清和天皇が廃針を納めた針堂はりどうを建立したことから、針供養が行われる 本堂 「十三まいり」 数え年で13歳になる子が、渡月橋を渡って当寺に参って、厄難を払い知恵を授かるために虚空蔵さまに祈願する儀礼です。 筆で好きな漢字を1字書き、奉納します。 参拝後は、いただいた知恵がなくならないよう、渡月橋を渡るまで後ろを振り向いてはいけないそうです。 後ろを振り向くと、折角いただいた知恵を虚空蔵さまに返してしまうことになる。 展望台
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嵐山 櫟谷宗像神社 モンキーパーク
櫟谷宗像神社 モンキーパーク 星のや京都 舟待合 櫟谷宗像神社(いちたにむなかたじんじゃ) 櫟谷 宗像 神社(いちたに むなかた じんじゃ):松尾神社の末社ご祭神:奥津島姫命(オキツシマヒメ) 市杵島姫命(イチキシマヒメ)ご由緒:「当社は、世人古くより俗に嵐山弁天社と称し、奈良時代大宝年間より鎮座されている名社である。 平安時代、葛野かどのに鋳銭所(今の造幣局)があり、新しい鋳銭は必ず当社に奉納せられたという。爾来じらい、福徳財宝の神として人々の尊崇が厚い。また、河海の女神であるところから水難の守護神ともされている」* 爾来: それからのち。それ以来。 嵐山モンキーパークいわたやま
嵐山モンキーパーク
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嵐山 大堰川 渡月橋
嵐山 大堰川 渡月橋 大堰川 大堰(おおい)の邸(やかた)候補地桂川の嵐山周辺を大堰川、その一帯を大堰と呼ぶ。平安時代の初期からこの近辺は景勝地とされ、多くの皇族・貴族は好んでこの地を訪れ、船を浮かべるなどして詩歌管絃の遊びを行った。恒例となった五月の車折くるまざき神社の「三船祭」は、大堰川での舟遊びを再現したものである。『源氏物語』「松風まつかぜ」には明石上が母の尼君、娘とともに大堰に住む描写があるが、その場所が「大井(堰)川のわたりにありける」とあることから、この居所の推定地の一つとして、平安時代前期の桓武天皇の大堰離宮が掲げられる。その近くには光源氏の御堂(現在の清涼寺付近)があった。1988年に当地で行われた発掘調査では、平安時代前期の建物に伴う園池跡が見つかり、桓武天皇が度々行幸された大堰離宮跡である可能性が高い。 渡月橋 渡月橋(とげつきょう)承和三年(八三六)に弘法大師の弟子の僧 道昌どうしょうによって大堰川の修築が行われ、その時に架設されたのに始まると言われ、千年以上の歴史を持つ由緒ある橋である。橋の南に法輪寺があったため、当時は「法輪寺橋」と称されており、渡月橋という名は、後に亀山上皇が東から西へ月が渡る様子を見て名付けたと言われている。 往時の橋は、現在の場所より100mほど上流にあり、慶長11年(一六○六)に角倉了以が保津川の開削工事を行った際に現在の場所に架け替えた。 現在の橋は,鉄筋コンクリートを主体とする近代的な構造であるが、京都を代表する景勝地の風景と調和さ,せるため、木橋であった旧橋の意匠を継承している。平成17年(2005)には、桂川の水を利用した嵐山保勝会水力発電所が整備され、それを電源とした足下灯あしもととうが、夕暮れ時から波月橋を照らしている。このような自然エネルギーを利用した取組は、地球温暖化防止にも寄与している。 2018年7月の豪雨時の大堰川 南西側から 渡月橋 南東側から
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嵐山公園周辺 SHOPS
嵐山公園周辺 SHOPS アラビカ京都 嵐山 常に行列ができているコーヒーショップ、桂川沿い、渡月橋を眺めながら美味しいコーヒを手頃に飲むのは最高。
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From Kyoto to the world. Currently 206 stores in the world. It is about our love for coffee, design, and #seetheworldthroughcoffee ***
パンとエスプレッソと嵐山庭園 パンとエスプレッソと嵐山庭園『エスプレッソと』パンとエスプレッソと嵐山庭園『パンと』 築210年の京都府指定有形文化財の「旧小林家住宅」をカフェとして改装し、2019年7月7日にオープンした全国で人気のベーカリーカフェ「パンとエスプレッソと」。庭園とともに楽しめるようになっています。
パンとエスプレッソと | 株式会社 日と々と
パンとコーヒー。毎日食べても飽きの来ない味を、日々追求しています。株式会社 日と々と
旧小林家住宅 当主屋は京都府船井郡園部町にあったものを、昭和45年から46年にかけて、移築復原されたものである。もとの所有者である小林家は江戸時代には宍人村の庄屋を勤めていた。*庄屋:江戸時代、代官の指揮のもとで村の事務を統轄する者。今の村長にあたる。名主(なぬし)。文化六年(1809)の建立で、屋根は入母屋造茅葺で妻入とし、その内部は片側に土間を寄せ、他方に二列を三室づつ六室を並べた、いわゆる摂丹型に属する民家で、丹波南部地域の江戸時代後期農家の一典型を示している。*摂丹型:摂津及び丹波地方に分布する民家の形式です。この主屋の建築年代は、小林の所蔵の「小林九平衛日記」や戸袋底裏座敷の墨書により知られている。番付と梁伏を兼ねた板図にも保存されており、民家遺構としては多くの資料が揃っていて、農家建築の実態と動向を知る上でも重要な資料価値をもっている。なお、この嵯峨の地もこの主屋と同じ摂丹民家の分布に属している。(京都府指定文化財)京都市 湯豆腐 嵯峨野
http://www.kyoto-sagano.jp
魚雷観音 嵐山羅漢
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嵐山公園 亀山地区
嵐山公園 亀山地区 展望台 竹林の小径 大河内山荘を右に進み嵐山公園 亀山地区に入り、展望台まで上がる、上り坂ですが5分ぐらいで到着。美しい渓谷の景色がありました。 小倉百人一首文芸苑 拾遺集と百人一首 拾遺集と百人一首 小倉百人一首は、古今集から続後撰集に至る10種の歌集から撰歌されています。ここには、三番目の勅撰集となる拾遺集から選ばれた十一首の歌を紹介しています。….. 津崎村岡局(つざきむらおかつぼね)の銅像 津崎村岡局の銅像この銅像は、幕末の勤王家、津崎村岡局の像で、昭和3年(1929)、原型作者中牟田なかむた三次郎、設計者阪谷さかたに良之進りょうのしんの製作によって建てられた。*幕府を助ける佐幕派に対して、京都朝廷のために働いた一派。村岡局、名は矩子(のりこ)、天明6年(1786)、嵯峨に生まれ、父は津崎左京、近衛このえ忠煕ただひろに仕え、村岡局と名乗った。嘉永6年(1853)ペリーの来航とともに幕末の政局は俄かに慌ただしくなり、近衛卿は尊王攘夷派の公家として頭角を現した。局は、僧月照や水戸の鵜飼吉左衛門うがいきちざえもんらと親交を持ち、志士相互及び志士と公家との連絡に当たり、特に、近衛卿や西郷隆盛らの運動を助け活躍した。このため、安政5年(1858)井伊直弼による安政の大獄が起こると、局も捕らえられて江戸に送られ、永の慎に処せられた。その後、近衛家を辞して北嵯峨の直指庵じきしあんに隠居。付近の子女の教育に尽くした。村岡局は維新の女傑といわれているが、晩年は嵯峨庶民の慈母でもあった。明治6年(1873)88歳で没した。京都市 角倉了以翁 銅像 角倉了以翁の業績 翁(本名与七)の生誕は天文23年(西暦1554年)徳川家康は慶長8年(1603年)に幕府を開き 続いて駿府城(静岡)に政経文化の中枢審議機関(現代のシンクタンク)を設置して京都から翁を迎えた 翁は息子の素庵(与一)の協力を得て12月には「安南国貿易」「御朱印船貿易」の第一船を出航 9年の6月に帰国以来13年まで角倉船は年一回の出航を続けたが七度目に烈し、風波のため難破し翁は事業を素庵に譲り隠退以後その蓄財を基にして河川の開削事業(現在の治水事業)を始めた。 一・慶長11年(1606年)「保津川大堰川の開削」完成 一・慶長12年(1607年)「富士川疏通」完成 一・慶長13年(1608年)「天龍川開削」は未完成 一・「方広寺大仏殿再建」のため鴨川の疏通実施 一・慶長16年(1611年)「高瀬川の開削」完成 一・慶長19年(1614年)60才にて没す 了以翁の偉業を讃えた京都の町衆が據金きょ‐きんし第二次大戦中取り壊された銅像を復元した。     昭和63年5月28日  角倉了以翁像碑保存会 角倉了以翁 銅像 駒札 徳川幕府のシンクタンク(重要諮問会議)の一員として若くより招かれ、御朱印船にて安南(今の東南アジア)方面に渡航成功7回、巨額の富を得、これを治水事業に充当する。最初に1606年保津川、大堰川開削、次いで駿河国(静岡県)1614年京都市内で高瀬川開削に成功し治水の先覚者となる。京都三大銅像の筆頭である。 後拾遺集と百人一首 周恩来 記念詩碑 故周恩来総理は1917年に来日され、1919年までの青年時代の一時期を日本で過され、京都にも滞在された。京都滞在中、周恩来総理は新しい思想を知り、暗い世界の中で一点の光のような感動を受け、1919年4月5日、これを雨中嵐山という詩に表わした。 1978年8月、日中平和友好条約が調印され、この条約調印を永遠に記念し、子々孫々にわたる友好を願う心を表わしたいという声が巻き起こった。そこで、京都にゆかりの深い、日中両国友好のために尽された周恩来総理の詩碑を建立しようという運びに至った。http://www.japitkyoto.jp/shu-onrai/ 大堰川(おおいがわ)桂川(かつらがわ) 西西東 渡月橋方面東 渡月橋方面
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嵐山 トロッコ嵐山駅~落柿舎
トロッコ嵐山駅~御髪神社~落柿舎 トロッコ嵐山駅 竹林の小径から北に進む数分でトロッコ嵐山駅 御髪神社 小倉池 小倉池御髪神社 祭神:従五位 藤原 采女 亮 政之 公(ふじわら うねめの すけ まさゆき)   亀山天皇御代(1259年~1274年)藤原基晴卿が宮中の宝物係として仕えていたが所管の宝物を紛失した責任をとり、 探索の為諸国行脚し文永5年(1268)に下関に居を構え、三男政之公が生計を髪結職に求めたのが、髪結業の始祖であった。髪塚:髪は人身の最上位にあって、造化の神よえい賜った美しい自然の冠りであると共に、生前にも残し得る唯一の分身として大きな恩恵に感謝する等、副神として納祭し祈拝される 御髪神社 小倉池 常寂光寺 山門前 日蓮宗の寺院である。慶長元年(一五九六)、本圀ほんこく寺十六世究竟くきょう院日禛にっしんが、この地に隠棲いんせいして開創した。寺域が小倉山の中腹を占め、幽雅閑寂で、天台四土にいう常寂光土の観があるところから常寂光寺の寺名がつけられたといわれる。 多宝塔(重要文化財)は元和六年(一六二〇)の建立で、並尊閣へいそんかくといい、前面に霊元天皇の勅額を掲げている。本堂は伏見城の建物の一部を当寺二世通明院日韶にっしょうが移転修造したものといわれる。 仁王門はもと本圀寺客殿の南門を移転、妙見堂は能勢妙見を分祀し、歌仙祠には藤原定家(ていか)・家隆(いえたか)の木像を安置する。また、時雨亭は定家山荘がこの付近であるとして建てられたものである。 京都市 土佐四天王の像
Museum李朝
Museum李朝は京都嵯峨野・松尾芭蕉ゆかりの落柿舎前に佇む李朝陶磁器・民芸陶器専門のカフェ&ギャラリーです。
嵯峨天皇皇女 有智子内親王(うちこないしんのう)墓 落柿舎( らくししゃ )   ここは、蕉門十哲の一人として名高い 向井去来むかい きょらい (慶安4年(1651)〜宝永元年(1704))の閑居かんきょの跡として知られている。当時、庭にあった40本の柿の実が一夜のうちにほとんど落ちつくし、かねて買約中の商人を気の毒に思って価を返してやった。これが落柿舎らくししゃの名の由来である。  芭蕉も晩年、3度当庵を訪れて、名作 『嵯峨日記』 を著した。  庭には去来きょらいのよんだ「柿主かきぬしや梢こずえはちかきあらし山」の句碑がある。柿主さん ここの柿は風が吹けば一夜で落ちるが、それもそのはずだ、梢の向こう、すぐ近くに嵐山だから。  去来は長崎の生まれ、芭蕉に師事して俳諧を学び、その芭蕉をして「洛陽に去来ありて、鎮西に俳諧奉行なり」といわしめた。かつて武人であった去来は極めて篤実真摯な人柄で、芭蕉に仕えるさまは、ちょうど親に対するようであった。 *鎮西:九州の異称。大宰府を一時鎮西府と称した。  その句  「鴨なくや弓矢を捨てて十余年」 はよく知られている。
http://yasumasa.jp/2019/11/28/post_4421.html
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嵐山 野々宮神社 竹林の小径
嵐山 野々宮神社 竹林の小径 竹林の小径 野々宮神社への入り口 天龍寺前 北向竹林の小径 野々宮神社 入り口竹林の小径 野々宮神社 入り口
SNOOPY Chocolat - スヌーピーショコラ -
スヌーピーの世界をテーマにしたチョコレートブランド。PEANUTSで描かれる平和や友情、恋などの物語、京都を訪れるすべての人に伝えたい日本のすばらしさを一粒のチョコレートに表現。世界中から厳選したカカオに日本らしい素材を掛けあわせ、熟練のチョコレート職人が贅沢な逸品に仕上げています
野々宮神社 『伊勢の神宮に奉仕する内親王ないしんのうが潔斎けっさいのため居住された跡で、今三つの祠があり、中央に天照大神を祀り、左右に愛宕、松尾の神を祀っている。*皇族女子の身位または称号の一つ。*潔斎けっさい:神事などの前に、酒肉の飲食その他の行為を慎み、沐浴 (もくよく) などして心身を清めること。歴代天皇は未婚の皇女を神宮に奉仕せしめられ、これを斎宮(さいぐう)といった。*斎王:天皇の代わりに伊勢神宮の天照大神にお仕えしていた女性のこと。斎王は、天皇の娘や姉妹、従姉妹など、未婚の親族から選ばれ、都から遠くはなれた斎宮(さいくう)で暮らしていました。斎宮に立たれる内親王は、まず皇居内の初斎院で1年余り潔斎されてからこの野宮に移り、3年間の潔斎の後、初めて伊勢に向かわれたが、その時の行列を斎王群行といった。斎宮は垂仁天皇の時に皇女倭(やまと)姫命をして奉仕せしめられたのが始まりで、その後北朝時代(14世紀後半)に廃絶した。野宮は源氏物語にも現れ、謡曲、和歌などに謡われているが、黒木の鳥居や小柴垣は昔のままの遺風を伝えるものである。』 日本一 黒木(くろき)鳥居 黒木鳥居とは樹皮のついたままの鳥居のことで鳥居の形式としては極めて原始的日本最古のものであります。当社は従来より鳥居の用材に「くぬき」を使用して三年毎に建替をしてきましたが近時鳥居に適するくぬきが入手困難となって参りました。そこでなんとか昔の面影を残したいと考えておりました処 幸にも香川県高松市の日本興業株式会社より自然木の鳥居の寄進をうけ、このたび建立の運びとなりました。この「くぬき」は仝社が徳島県剣山(一九五五米)の山麓より切り出し防腐加工を施し、奉製をされたものです。また鳥居の両袖の小柴垣は「くろもじ」を用い源氏物語を始め謡曲、和歌、俳句などにも表わされた黒木の鳥居と小柴垣の遺風を残したものであります。 平成五年四月大安吉日       嵯峨野の宮 野宮神社 野宮(野宮神社) 源氏物語ゆかりの地 野宮(野宮神社)平安時代の斎宮さいぐうが伊勢下向に備えて潔斎生活をした野宮の一つ。斎宮に任命されると、一年間、宮中の初斎院に入って身を清め、そのあと浄野に作られた仮宮(野宮)で一年間ほど潔斎生活をする。平安時代の野宮は主として嵯峨野一帯に設けられ、建物は天皇一代ごとに造り替えた。南北朝の戦乱で斎王制度は廃絶したが、神社として後世に残された野宮神社には黒木(皮のついた丸太)の鳥居と小柴垣が再現されている。 斎宮となった六条御息所の娘(後の秋好中宮)が一年間、野宮で潔斎生活を送り、いよいよ伊勢に下向するという直前に、光源氏が六条御息所を野宮に訪ねる場面が『源氏物語・賢木さかき』にみえる。そこには小柴垣を外囲いにし、仮普請の板屋が建ち並んで、黒木の鳥居とある。*六条御息所:『源氏物語』に登場する架空の人物である 竹林の小径 天龍寺北門から大河内山荘庭園まで 天龍寺 北門 北 トロッコ嵐山駅常寂光寺へ南 亀山公園へ東 北門へ 大河内山荘庭園 この庭園は昭和初期の映画俳優大河内伝次郎(1898〜1962)が百人一首で有名なここ小倉山からの雄大な風光に魅せられ、30年に渡り丹精こめて、こつこつと造りあげた優美な庭園です。桜や楓が多く植栽された園内からは、嵐山に保津川の清流、比叡山や京の町並みなども眺められ、四季折々に趣があります。近年、国の文化財に指定されました。
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天龍寺③ 曹源池~北門
曹源池~多寶殿~北門出口 曹源池(そうげんち) 世界文化遺産 史跡・特別名勝 天龍寺十境 曹源池開山・夢窓国師の作庭 左手に嵐山、正面に亀山・小倉山、右手遠景に愛宕山を借景にした池泉回遊式庭園で、優美な王朝文化の大和絵風の伝統文化と宋元画風の禅文化とが巧みに融け合った庭ある。正面の枯山水の三段の石組は龍門の滝といい、これは中国の故事に由来する。手前の石橋は 日本最古の橋石組で右の石組は釈迦三尊石と称し、釈迦如来(中央)、文殊菩薩(左側)、普賢菩薩(手前下側)を表現している。曹源池の名称は国師が池の泥をあげた時、池中から「曹源一滴」と記した石碑が現れたところから名付けられた。 平成六年(1994)ユネスコより世界文化遺産に認定登録された。駒札より
天龍寺 曹源池庭園の魅力をご紹介(京都府京都市右京区) | 庭園ガイド
【京都市右京区で池泉庭園を楽しむ】 京都五山の第一位「天龍寺」は、後醍醐天皇を供養するために室町初期(1339年)に臨済宗として創建。開基(資金提供)は足利尊氏、開山(初代住職)は、日本初の作庭家ともいわれる臨済宗の禅僧・夢窓疎石(むそう そせき)である。夢窓疎石が堂舎を建て、池を整備したことは確かだが、作庭までの行っ...
龍門亭の入り口付近に「一滴の碑」が建っています。禅の神髄を指す言葉に「曹源(そうげん)の一滴水」があります。禅宗の事実上の開祖とされる慧能(えのう)は、曹渓(中国の広東省)に住んでいたことから「曹渓」とも呼ばれ、慧能によって禅法が大成したことから、慧能を一滴の源泉と見なして、禅法の源泉を「曹源」と称されます。 方丈 室内 後醍醐天皇聖廟多寶殿 多宝殿此の地は禅宗最初の道場檀林寺の旧跡にして後嵯峨、亀山両天皇が離宮を造営せられた所で後醍醐天皇が御幼少の頃勉学せられ御成人せられた跡です。延元四年(1339)天皇が吉野の行宮ではるか京都を望みお隠れになったので光厳上皇は院宣を下して御菩提のために離宮を革めて禅刹天龍寺とされました。創建以来八回の火災に遭い、昭和九年当時の官長精拙和尚が現在の聖廟多寶殿を完成しました。建築様式は吉野朝時代の紫宸殿づくりで中央に後醍醐天皇の御尊像を両側に歴朝天皇の尊碑が奉安してあります。 望京の丘からの展望 平和観音と愛の泉 天龍寺 開山 夢想国師の母は観音菩薩の霊夢を蒙り国師を生む。国師は成長の後、常に観音菩薩を信仰し念持佛とせられる。この観音像はむかし中国より伝来したものです。国師は南北両朝の和平につくし、いつの世にか平和観音と称するに至った。この泉は八十米の地下より湧き出づる霊泉にしてこれを喫する者は「愛と幸」を受くると伝えられ「愛」の泉と称します。 硯石の由来 硯石の由来: 明治32年當山第3代管長 峨山和尚が選仏場(坐禅堂)を法堂として再建されたとき、その天井に仏法を守護すると言われる「龍」の大画を「鈴木松年」画伯に依頼しました画伯は修行僧が60余人がかりで摺った墨をもって、大筆で一気に勇壮な雲龍図を描きあげました。 百年を経て、松年画伯の龍は姿を消し、代わって平成9年加山又造画伯によって新しい龍が描かれ現在に至っていますが、この硯石は、峨山和尚・松年画伯二老の遺徳を偲ぶよすがとして今に残されています。巷間、誰というともなく硯石を拝すると書画が上達すると伝え広まり全国各地から訪れる人が絶えません 竹林 北門出口 北門参拝受付 入り口 竹林の小径 北門から東向 野々宮神社方面へ北門から西向 竹林の小径
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天龍寺② 法堂~方丈
天龍寺② 法堂~庫裏~方丈 法堂 「当寺は暦応二年(1339年)奈良県吉野の行宮にて崩御された南朝の後醍醐天皇の冥福を祈るため、足利尊氏が発願し、北朝の光厳上皇の勅許を得て、夢窓国師を開山として創建された。 正しくは霊亀山 天竜資聖禅寺(てんりゅうしせいぜんじ)といい、室町時代には京都五山第一位の寺格を誇った。この地は後嵯峨上皇・亀山上皇の離宮「亀山殿」であり、後醍醐天皇が幼少期から青年期までここで成長修学されたゆかりの地であった。 当寺建立のために、光厳上皇・足利尊氏は諸国の荘園領地を寄進されたが、更に御朱印船「天龍寺船」という貿易船を中国に派遣し、その利益を建立の資金とした。それにより応永年間(1425年)には七堂伽藍をはじめ120の子院等があり、4km四方にわたる壮大なものであった。 天龍寺は過去に8回の大火に見舞われ、最後は元治元年(1864)幕末の蛤御門の変で、薩摩軍の兵火にかかり、灰燼に帰した。その後、明治三十年(1897)に漸く現在の伽藍に復興し、今日に至っている。 史跡・特別名勝天龍寺庭園「曹源池」は方丈の西にあり、借景による池泉回遊式の庭園で、開山夢窓国師晩年の作庭として随一を誇るものであり、平成六年(1994)世界文化遺産に登録された。」天龍寺 駒札 朱印所 法堂 雲龍図
雲龍図のご案内:世界遺産|京都 嵯峨嵐山 臨済宗大本山 天龍寺 公式ホームページ
臨済宗大本山「天龍寺」の公式ホームページ...
庫裏 達磨図 平田精耕老師作 達磨図 明治32年(1899)の建立。庫裏は七堂伽藍の一つで台所兼寺務所の機能を持つ。方丈や客殿と棟続きで、切妻造の屋根下の大きな三角形の壁を正面に見せる。白壁を縦横に区切ったり、曲線の梁を用いたりして装飾性を出した建物で天龍寺景観の象徴ともなっている。また、玄関に入った正面に置かれる大衝立の達磨図は前管長である平田精耕老師の筆によるもので、方丈の床の間などに同じ達磨図が見られ、達磨宗である禅を象徴し、天龍寺の顔ともいえる。http://www.tenryuji.com/precincts/index.html 式台鬼瓦 式台とは武家屋敷などにおいて表座敷と玄関の間にあって取次の儀礼などが行われたり、家来が控える部屋のことをいう。 天龍寺(てんりゅうじ)は,嵐山を背景として建長7年(1255)に造営された離宮を,暦応2年(1339)に禅寺へ改めたものです。当初は三門,仏殿,法堂,方丈が一直線上に並ぶ典型的な禅宗寺院の伽藍が整えられ,さらに方丈の裏には夢窓疎石が携わって,自然の地形を大きな築山に見立てた庭園が造られました。その後,たびたびの兵火によって主要伽藍は失われましたが,庭園は現在も残されており,園池の北汀から東汀にかけては作庭後何回か手が加えられているものの,当時の趣を伝えています。 滝組竜門瀑(りゅうもんばく),石橋,岩島といった石組を立てたダイナミックでしかも繊細な趣の池庭で,方丈からの眺めを重視した構成や石組の手法は室町時代以降発展する枯山水庭園や護岸石組に影響を与えています。 方丈 東側 正面 この建物は方丈と称し、禅宗様式伽藍の一つで住職の居室であります。中央に祭られている本尊様は藤原時代作の釈迦如来像です。天龍寺は創建以来六百五十年間に八回の火災がありましたが、このお釈迦様はその火難を蒙らず現存されている天龍寺に祀られている仏様の中で最古の尊い仏様です。 東は中門に対し、西は曹源池に面する。東側が正面で曹源池側が裏となる。 中門 西側 曹源池側 裏 龍門亭 精進料理 篩月(しげつ)
天龍寺直営 精進料理店「篩月(しげつ)」:世界遺産|京都 嵯峨嵐山 臨済宗大本山 天龍寺 公式ホームページ
臨済宗大本山「天龍寺」の公式ホームページ...
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世界遺産 天龍寺① 総門から
http://www.tenryuji.com 総門~弘源寺~八幡宮~法堂 総門 南門 南向き 渡月橋へ東向き JR嵯峨嵐山駅へ北向 野々宮神社 清凉寺へ天龍寺 総門天龍寺 南門 駐車場は南門から入ります。係員の人が立っていますので、入庫時に支払います。 総門 駒札 霊亀山れいぎざんと号する臨済宗天龍寺派の大本山で、釈迦如来を本尊とする。平成6年(1994)に世界文化遺産に認定登録された。足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、暦応2年(1339)、夢窓疎石を開山に迎え創建した寺院で、当初は暦応資聖禅寺と称されたが、尊氏の弟直義が見た金龍の夢に由来し、天龍資聖禅寺と改められた。その後、寄進や天龍寺船の貿易収入により伽藍が整えられ、至徳3年(1386)には、京都五山の第一位を占め、大いに隆盛を極めた。しかし、度重なる災火により堂宇を焼失し、現在の諸堂は明治以後に再建されたものである。夢窓疎石の作庭と伝えられる地泉回遊式庭園は曹源池を中心に遠景の嵐山と近景の亀山の借景を巧みに取り入れており、国の史跡及び特別名勝第一号に指定されている。また、寺宝として、絹本著色夢窓国師像など数多くの重要な文化財を蔵している。京都市 中門 中門 勅使門 中門より少し南に勅使門があります。 放生池(ほうじょういけ) 放生池放生池 妙智院 西山艸堂 妙智院 西山艸堂 塔頭のひとつ「妙智院」 御本尊:釈迦牟尼仏 天龍寺七福神(宝徳稲荷)西山艸堂「せいざんそうどう」:妙智院の中にある 嵯峨野で最も古い湯豆腐専門店。土鍋の中には「森嘉」の本場嵯峨どうふ、そして前菜3種・オリジナルの豆腐のお寿司・ひろうず・ごま豆腐・生湯葉・山いも・ししとうなど季節野菜の精進揚げが添えられる。 塔頭寺院 弘源寺
弘源寺 - 臨済宗大本山天龍寺塔頭寺院
京都嵐山に位置する大本山天龍寺の塔頭寺院、弘源寺(こうげんじ)のウェブサイトです。
慈済院 水摺福寿大弁財天 弁天堂 慈済院(じさいいん) 水摺福寿大弁財天(みずずりふくじゅべんざいてん) 「本殿に安置し奉る大辨財尊天は 七朝の帝師として道徳の誉れ高く 禅風を挙揚して 普く衆生済度の功業を施し給える天龍寺開山夢想國師が霊感に依り 法力信念を籠めこ一刀参禮を以って彫刻し 後生利益の為に当院開山佛慈禅師に授與した眞に由緒深き御霊像なり 世に開運出世大辨財尊天と尊称し奉る新水吉日を卜として 香水を以って尊影を浄写し「巳成金の日」の大祭に抽籤により篤信者に謹呈す 故に水摺福壽辨財尊天と通称し奉る六百五拾有星霜その霊験顕著にして香華の絶えることなし」駒札より 天龍寺七福神めぐりの一つである弁財天(水摺大弁財天)みずずりべんざいてんを祀る。夢窓疎石(1275-1351)が、一刀三礼して彫りあげた弁財天を、着物にも不自由していた弟子・無極志玄むきょくしげんに授けたという。後に、志玄は栄達し、天龍寺の二代目となり、慈済院を開山するに至った。これも弁財天のご加護によるものとして、「水摺り」香水で弁財天の姿を写し、信者に配布したことから「水摺大弁財天」と呼ばれた。* 弁財天の御利益:立身出世 慈済院 別院塔頭 松巌寺 別院塔頭たっちゅう 松巌寺(しょうげんじ) 仏像 七福神の一人、福禄寿天を祀る。 福禄寿の縁日、節分の2月3日のみお堂は公開されているとのこと。 福(子孫繁栄)、禄(財産)、寿(健康長寿)の三徳が揃ってこそ人は幸せという古代中国におきた道教から来ている福の神。幸福の「福」と好運、財福の「禄」、寿命の「寿」三徳を備えた長寿の七福神。 総鎮守社の八幡社 八幡大社: 御祭神 八幡大菩薩。天龍寺の総鎮守社。 鳥居には「八幡大菩薩」、社殿には「護国霊験」の扁額が掛かっている。 「一九四一年に始まった太平洋戦争は、有史以来の戦争の様相を大きく変えた。それは、本格的な航空戦が加 ったゆえである。無限の広がりを持つ新しい空の決戦場は、多数の飛行機搭乗員を必要とした。高度な飛行技術と強靱な精神力を求められる搭乗員は、年少期よりの専門教育が至情とされるところから、厳しい訓練に耐え得る鋼のような肉体と純真でひたむきな学習力を持つ青少年に、国を挙げての期待が集まるのは当然の成り行 きであった。空はまた、青春の心を捉えて止まない魔力を備えていた。かくして若者は、学業なかばにして次々と 飛行機乗りの道を選び、熾烈な空の戦いに参加して多くの者が散華していった。彼らには、名利や栄達への欲望など一切なかった。祖国を呑み込もうとする怒濤の前に、己が生身を投げ出す事が、平和の礎になるものと信じて疑わなかった。同じ思いをわかち合いながら、紙一重の差で戦後を生かされた空の仲間達は、先駆けた友の霊を慰め、その願いを後世に伝えるよすがとして観音像の建立を発願したが、砲火を交えた異国の人々にも思いを巡らす時、同じ空の戦いに散った翼の友として、彼我の別なく追悼する事に異論の有ろう筈もなかっ た。さらに航空殉難者も合わせ回向する旨を広く世に問うたところ、胎内に収める写経三万巻と浄財が寄せられ、世界の平和と航空安全の本尊として、飛雲のおん名を奉る観音像がここに建立された」 ソ連抑留死没者慰霊碑 第二次大戦後 ソ連に抑留され不帰の客となったはらからの霊とこしえに眠りませチタ州フカチャチャ収容所から帰還した我らは 昭和44年10月10日 ようやく同収容所で永眠された千余柱の英霊を初めソ連地区抑留戦没者並びに帰還後死没者の合同葬儀をここ天龍寺にて執り行うことができた これら同胞の遺品と過去帳をここに納めて 世界の永遠の平和を念じつつ この碑を建立てる。 法堂 駐車場側(東側) 宝厳院入り口 駐車場 法堂前 東向法堂前 南向 宝厳院入り口へ
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